794年の平安京から里内裏、御所へ天皇の住いの移動を辿ってみる

延暦13年(794年)に長岡京から平安京へと京都が遷都しました。約1300年の間に当時と現在では大きく様変わりしました。政治の中枢だった平安宮は平安時代の終わりには焼失により建物群はなくなり、天皇が住む内裏も時代ごとに流転することになります。

平安遷都当時の入口だった羅城門跡から、中央通りだった朱雀通りを通り、名残を示す碑や案内板を辿りながら、天皇の住いの場所を辿ったみます。

平安京の入り口、羅城門と東寺・西寺

平安京遷都の際に造営された東寺こと救王護国寺。造営は延暦15年(796年)からで、現在の建物は再建を繰り返したものの、伽藍の配置は変わっていないと言われています。

弘仁14年(823年)に嵯峨天皇により空海に勅給され、真言宗の寺となりました。五重塔は京都のシンボルとなっています。

九条通を西へ進むと矢取地蔵尊があります。伝承によると神泉苑にて空海と西寺の守敏による雨乞い祈祷があり、それに負けた守敏が恨みから、羅城門で空海に矢を放ったところ、それは地蔵で空海の身代わりとなった、とされています。

矢取地蔵尊の裏手にある羅城門跡の碑。羅城門の正確な位置はまだ特定されていません。ちなみにに京都駅烏丸口西に羅城門の模型があります。

羅城門跡から北西にある唐橋西寺公園にある西寺跡の碑。東寺と同時期に造営された西寺は、左右対称で作られました。しかし、天福元年(1233年)に塔が焼失してから荒廃していき原っぱとなりました。現在ある公園の小さな丘(コンド山)の下は、調査により講堂の基壇があった場所でした。

ここから北へ線路を潜って向かいます。

朱雀通りを北上する

京都市中央卸売市場の東側の通りが、平安京のメイン通りだった朱雀通りとなります。現在は千本通りと呼ばれています。

発掘により位置が確定したことを記す銘板。

島原のエリアには外国からの使者を接待する迎賓館だった東鴻臚館の碑があります。反対側にも西鴻臚館がありました。

千本通りを北進すると道路が狭くなります。

朱雀大路に因んだ建物の名前があります。三条通に出ると千本通は広くなります。一旦二条駅前を右折して御池通りを東へ進みます。

平安宮へ入る

平安京の祈祷・請雨を行う離宮・禁苑出会った神泉苑。平安京時代はもっと規模が大きく、現在は16分の1となっています。

空海と守敏の請雨合戦や、祇園祭の発祥となった場所でもあります。

神泉苑から北へ進み二条城の堀沿いに西へ。

ここから平安宮となり、政治の中枢の場所となります。様々な役所が設けられ、それらは曹司と呼ばれます。文官の人事を担当する式部省の案内板。

看板から西へ進み、千本通りある朱雀門跡の碑。実際には場所は特定されていませんが、式部省の西並びにあったと思われます。

平安時代に門の前ではいろいろな式典が催され、斎王が伊勢へと旅立つ場所としても知られています。

政治の中心だった大極殿

千本丸太町通にあった大極殿。平安宮の中で最も重要な施設で、天皇の各種行事が行われていました。度重なる火災による焼失や地震・台風といった損壊被害があり、安元3年(1177年)に焼失してからは、この場所には再建されませんでした。

大極殿跡の説明板。都市化が進み、その痕跡はとどめていません。発掘では数少ない痕跡により位置は把握されています。

旧丸太町通を西へ行くと空き地にある平安宮豊楽院跡。饗宴を行う建物でした。

京都アスニーにある平安京創生館。巨大な1000分の1の平安京周辺模型が一番の目玉です。模型の建物群の再現はは平安京当初ではなく、数百年の幅があり都市の変遷がわかるようになっています。

千本丸太町に戻って北西角にある内野公園。大極殿といった建物は度重なる火災で焼失し、再建されなくなるとそこは原っぱになります。

大極殿跡の碑。古くに建てられたので、現在の調査結果からこの碑の位置は本来から北にあることになります。

内野公園から千本通りを北にあがり、出水通りを西に行くと宴松原の碑があります。内裏建て替えの際の代替え地とも宴の場所とも言われますが、平安時代から原っぱで薄気味悪い場所として伝わっています。

天皇の住い、内裏へ

宴松原から東へ下立売通に入ると天皇の住まいとなる、内裏の郭回廊跡の碑と保存地があります。

下立売通を北へ一本上がると新出水通りや周辺には、内裏関係の碑や案内板が多数置かれています。

住宅街が連なるこの通りの下に遺跡として眠っている内裏があるとのだと思うと、細い路地であっても趣があるように感じます。

流転する天皇の住い、里内裏

平安宮の内裏が焼失した場合、天皇は里内裏という公家の邸宅を代理として、場所を変えながら生活していきます。

堀川通に出て南下し押小路通に入ると、元は藤原冬嗣の邸宅で、平安後期〜鎌倉時代の白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇といった多数の歴代天皇の里内裏となった閑院の碑があります。

東へ進むと藤原良房の邸宅で一条天皇の里内裏となった東三条殿跡の碑。この他にも平安時代後期から鎌倉時代の終わりにかけて天皇達は住まいを転々とすることになります。

京都御所へ

東へ烏丸通を超え、北に進み江戸時代に公家達の邸宅跡だった京都御苑に入ります。

南北朝時代に後醍醐天皇による南朝の確立で吉野に皇居が作られると、代わりに北朝の光厳天皇は土御門東洞院殿を里内裏として住むようになりました。やがて南北朝統一を機に土御門東洞院殿が室町時代以降の天皇の皇居として確立しました。また混乱した戦国時代にかけて織田信長や豊臣秀吉らの武士の支援を仰ぎ、それもあって天皇の居場所は動きませんでした。

戦国時代が終わり江戸時代に入ると、天明8年(1788年)の焼失により幕府によって平安期の形式で建物群を復興させました。安政元年(1854年)に焼失しましたが同規模で再建し、これらが今の京都御所になっています。

しかし近代になると明治維新となって政治の中枢は東京へと移り、天皇もそこに住むことになり現代の天皇が続きます。

1300年もの間、都だった京都は「天皇が住む都」ではなくりました。将来、何らかの要因で東京にいる天皇は住まいを別の地へと変えるのか、また京都に戻る時代が来るのか。

日本の象徴である天皇の居場所は時代と共に動いているのです。

参考文献
フィールドミュージアム京都
平安京(京都市文化財ブックス28)
平安京図会((公財)京都市生涯学習振興財団)
京都歴史散策マップ01.平安宮跡