第26回・戦国時代の始まり、応仁・文明の乱と山城国一揆(1410〜1500年頃)

足利義満の死後、4代目将軍となった義持は諸外国での兵の挙兵により代わり5代目の義量を立てるが若くて死に、6代目に義満の子である義教が義持の子供らと相手にした籤引きにより将軍に就いた。

義教は永享7年(1435年)に延暦寺を弾圧、建物を焼き多くの犠牲者が出た。湯起請(ゆぎしょう)という占いで政策を決めた義教への反発は大きく嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に暗殺される(嘉吉の変)。

7代目に義勝がなるが10歳で死去し、8代目に義政が就くものの、政局は不安定となっていく。

応仁の乱の発端

龍安寺(右京区龍安寺御陵下町)
都名所図会第6巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第6巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

足利家の重臣で管領家の細川勝元が宝徳2年(1450年)に創建した。管領家は貴族のような実権を持ち、細川家の他に畠山氏や斯波氏の三管領家、そして山名氏がいた。
管領家同士の権力争いだけではなく、管領家内部の身内による家督争いが絶えず、足利家の統治が弱まり収めることができなくなりつつあった。こうした争いが大規模な戦いに発展するようになる。

上御霊神社(上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町)

応仁元年(1467年)1月、義政を押した畠山持国の子である畠山義就と養子の政長に不穏な空気が漂い始める。政長は義政から管領と守護職を罷免され、代わり就いた義就に抵抗すべく自邸を焼き上御霊神社の近くに陣を張った。これに便乗し細川勝元が政長につき義就側であった山名宗全を襲う。
こうして応仁の乱が始まった。

西陣(上京〜北区周辺)
都名所図会第6巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

西陣の地名は山名宗全が西軍の陣地を置いたことに由来する。細川勝元の東軍は相国寺に置かれた。

船岡山(北区紫野北舟岡町)

都名所図会第6巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

平安京の北のシンボルで西軍の拠点の一つであったが、応仁2年(1468年)に東軍が攻め占拠した。

法輪寺(西京区嵐山虚空蔵山町)
都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

法輪寺は和銅6年(713年)に行基が開創した木上山葛井寺が発祥。貞観16年(874年)に法輪寺に改名した。十三まいりで有名な寺院。
応仁元年に畠山義就と東軍の筒井光宣が戦い寺堂が焼失、翌年も丹波からの細川側の軍勢と西軍が戦い細川軍の野田泰忠が戦った。

芝薬師堂(左京区浄土寺真如町)
拾遺都名所図会第3巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第3巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

正式名称は大興寺。建久7年(1196年)に後鳥羽天皇により創建された。元々は堀川今出川の北に地名として残る芝薬師町にあった。
文明元年(1469年)に細川側が山名側の陣地に攻め込む際に焼失した。
乱の後に再興したが元禄時代に焼失し、現在の左京区浄土寺真如町へ移転した。

千本釈迦堂(左京区浄土寺真如町)
都名所図会第6巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

正式名称は大報恩寺。安貞元年(1227年)に義空上人より建てられた。
乱では境内の建物の大半は焼けたが両軍の保護からか本堂は消失から免れた。本堂は創建当時に作られた、京都市街地で残る最古の木造建築として国宝となっている。
戦いは両陣営が激しく戦い都の中心部は焼け野原となった、戦地は拡大し一乗寺や山科・稲荷・醍醐・鳥羽や桂といった郊外にまで広がった。その戦いで焼失を免れたのが醍醐寺の五重塔で、京都府内最古の木造建築である。

応仁の乱により祇園祭は中断することになる。文明5年(1473年)に両陣営の山名宗全・細川勝元が死去。それでも戦いは続き文明8年(1476年)に花の御所が焼失する。文明9年(1477年)に畠山義就が兵を引くことにより戦に参加していた大名が領国に戻り戦いは収束する。

戦乱の中の宗教家

山科本願寺跡(山科区西野大手先町)
都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

応仁の乱が始まる前の寛正6年(1465年)、浄土真宗の本拠地だった東山大谷に延暦寺の僧兵が急襲、建物は燃え蓮如は近江堅田に逃げる事となり、さらなる安住を求め北陸吉崎へ。応仁の乱後、政情が安定したのか都に戻る事を決意し、文明11年(1479年)に山科本願寺を創建する。

蓮如上人廟所(山科区西野大手先町)
拾遺都名所図会第2巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

蓮如は明応五年(1496年)に大阪の石山本願寺を造営する。明応8年(1499年)に山科本願寺で死去する。

一休寺(京田辺市薪里ノ内)
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

一休は後小松天皇や足利義満の落胤と言われ、6歳にして出家した。幼少時代は聡明な子供で大徳寺の高僧・華叟の弟子となる。30代半ばから諸国行脚し世相を見つめた。一休は康正2年(1456年)に、かつて南浦紹明が創建して元弘の乱で荒廃した妙勝寺を復興させ、宗祖に報いるとして酬恩庵と名付けた。応仁の乱が起こると東山に虎丘庵を作りそこに逃げる。
文明6年(1474年)に77歳で応仁の乱で焼失した大徳寺を復興させた。文明7年(1475年)に虎丘庵から酬恩庵に住まいを移し、大徳寺に通いつつも、文明13年(1481年)ににて88歳で亡くなった。

戦乱からの東山文化

銀閣寺(京都市左京区銀閣寺町
都名所図会第6巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第6巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

応仁の乱で混乱する政局に嫌気がさした足利義政は、文明14年(1482年)に東山山荘を造営をすることになる。この地には浄土寺という寺院があり応仁の乱で焼失したが、義政がこの地を気に入り山荘を作ることになった。
通称の銀閣寺は観音殿のことで、金閣に習い銀箔を貼る事を想定されていたと伝えられているが、義政が創建中に死亡したため真偽はわからない。義政は東山山荘に移り住み、文明この地から東山文化が生まれた。
義政の死後に無相漱石に禅寺として慈照寺となった。

山城国一揆による住民の自治

狛里(木津川市山城町・精華町)
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

足利将軍家は義政の後に息子の義尚が文明5年(1473年)に9歳で9代目将軍となったが、25歳の若さで死んでしまう。続いて延徳2年(1490年)に義政も死に、政治を仕切っていた義政夫人の日野富子は、次の将軍に義政の弟である義稙を選んだ。

文明17年(1485年)、南山城地域の久世郡・綴喜郡・相楽郡で畠山政長と畠山義就が再び対立し戦が始まった。この戦によって地域は強奪などの被害で荒廃し、農民の生活に支障が起きた。南山城地域では三十六人衆と呼ばれる地農武を兼ねた国人達が域を束ねていた。中でも相楽郡上狛の大里の狛氏は、環濠集落を作り外敵から身を守る事とした。
そして12月に地域の人達が平等院に集まり、一揆に動いた。両軍の追い出しや関所の撤廃、土地や年貢の扱いを定めた掟法を作り、執行が開始。ついに畠山両軍の撤退に成功した。
再び平等院で各郡の国人が集まり、法を整備して農民たちによる自治が8年も続くことになる。
こうした一揆は各地で起こり、翌年の文明18年(1486年)には土一揆により東寺が焼失する。

祝園(精華町)
拾遺都名所図会第6巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
稲屋妻城跡(精華町町大字北稲八間)
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

義稙は政治的に豪腕で大名の反発が大きく、それを危惧した富子は幕府での再興を図る細川政元と結託し、明応2年(1493年)に義稙を捕まえ京都に幽閉した(明応の変)。

細川政元が幕府で地位を保つと、実は政元が裏で操っていたとする国一揆の自治に介入し、山城守護に伊勢貞道を送り込む。多くの地域はそれに従ったが、それに反発する人々は抵抗戦を行い、祝園の北西にあった稲屋妻城に立て篭もり幕府軍と交戦した。しかし稲屋妻城は落城し、山城国一揆は終焉を迎えた。

室町幕府内での権力争いによる戦は地域の住民を困窮させ農民による一揆にも発展した。しかし幕府の政権は安定せず足利家ないでの将軍の地位の奪い合いともなった。

こうした争いが全国に広がり戦国時代へと入ることになる。

参考文献
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
絵がたり山城国一揆(文理閣)
一冊でわかる戦国時代(河出書房文庫)
初期室町幕府研究の最前線(洋泉社)
山城国一揆と戦国社会(吉川弘文館)
源平1000人(世界文化社)

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.5/28)

応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱