第32回・都の夏のお祭り、祇園祭と五山送り火

夏になると都では煌びやかな山鉾が動く祇園祭と夜空に文字が煌めく五山送り火が行われる。一千年以上とも言われるこの二つの祭りはいつ頃から行われたのだろうか?

町衆の祭り、祇園祭

祇園祭はそもそも平安時代に神泉苑で政争で怨霊となった者を治めるために、六十六本の鉾を立てて牛頭天王を祀り怨霊を神泉苑の池へ送り出す事から始まったとされる。

御霊会

拾遺都名所図会第1巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

怨霊は疫病や大災害で亡くなった死者達の怨念によって疫病がもたらされる原因とされた。それらを祭りをすることによって集め、市外へと送り出す習わしだった。都ではこうした御霊会が風葬地の近くの神社で行われた。平安時代から始まった神泉苑の御霊会は、牛頭天王を祀る祇園社(八坂神社)へ移り時代と共に祭りの形態は変化していく。

祇園御霊会

都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

旧暦の6月7日の神幸祭から14日の還幸祭まで行われる祇園祭の主役は山鉾ではなく、八坂神社から四条通を渡御する東御座・中御座・西御座の三つの神輿である。渡御した神輿は寺町京極の御旅所に止まる。

御旅所と御手洗井

都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

現代では八坂神社の神輿はの御旅所は四条京極にあるが、当初は東と中の神輿は地下鉄四条駅の南に今もある大政所御旅所へ、西は地下鉄丸太町駅の東にあった少将井御旅所(現在は地名のみ)へ分かれて渡御した。この二つの御旅所は天正19年(1591)に豊臣秀吉が今の四条京極の御旅所に統合させた。

また秀吉による御土居の造営により鴨川の西岸へ渡ることが分断され、神輿渡御は天正19年(1591年)から御土居の一部が開放される慶長6年(1601年)まで迂回を余儀なくされた。

大政所御旅所の北には御手洗井の井戸があり、かつてはここで手を清めて大政所御旅所へお参りをした。御旅所が移転してからは、江戸時代から祭りの期間だけ井戸水を使うことができる。

祇園祭の稚児

拾遺都名所図会第2巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

長刀鉾に乗るお稚児さんといった年少者は裕福な町衆から選ばれた。神様の使いのような扱いを受け鉾の巡行に参加する。

綾戸國中神社(南区久世上久世町)

都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

中でも南区久世にある綾戸國中神社から唐櫃で運ばれる久世駒形稚児は、他の稚児が歩いて祇園社に入るのに対し、駒形稚児だけが馬で入り、この稚児が来なければ神輿は動かせないほどの神聖なものであった。

山鉾巡行

都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

祇園祭に山鉾が現れたのは南北朝から室町時代の初めの十四世紀頃と言われる。元々は怨霊を集める賑やかしが、町衆が作り出す見せ物して発展していった。

山と鉾はそれぞれ違い、山は物語の情景を表す作り物を見せるのを主とし、鉾は台車から立つ一本の真木を中心に装飾を施する。規模は大きくなり応仁の乱の前では五十八基の山鉾があったとされる。

山鉾は神輿渡御の復路と往路の前に巡行することにより怨霊を集め、終わればすぐさま解体されて怨霊を払い神輿に穢れがつかないように言われいている。そのため山鉾巡行は前祭と後祭の二回行われる。

しかし、応仁の乱により祭りは中断し、復興したのは乱から三十三年後の明応9年(1500年)だった。この頃に巡行の順序を決めるクジ引きが六角堂で行われるようになり、それと長刀鉾がクジ取らずとなり、三十五基の山鉾が登場したと言われる。

江戸時代に入ると祇園祭は益々規模が大きくなり、山鉾巡行は神輿渡御が行われなくても巡行が行われるほど、祭りの形態が変わっていた。

四条河原夕涼み

都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

祇園祭の遊興はさらに発展し、四条橋の河原では現代の納涼床にあたる四条河原夕涼みが行われるようになった。祇園祭の6月7日から18日まで行われ、多くの茶屋が軒を連ね夜まで賑わった。

近代から現代へ様変わりする祇園祭

明治時代に入ると神仏分離により八坂神社で祀る仏教の牛頭天王からスサノオノミコトになり、祭りの日も旧暦の6月から新暦の7月17日に神幸祭が、24日に還幸祭へと変わった。

さらに山鉾を持つ町が、他の町からも支援を受けることができた寄町制度が明治5年に廃止され、経済的に困窮した山鉾を持つ町がそれを売却する事態になった。新しい寄付制度により存亡の危機は凌いだが、一部の山鉾は経済的に休止を余儀なくされた。

またクジ引きの場所が京都市市会議場となった。

戦時中になると山鉾も中断したが、戦後の昭和22年に長刀鉾と月鉾から再開して徐々に増えていった。そして昭和37年に二十九基の山鉾が重要民俗資料となり、昭和54年に重要無形民俗文化財となった

当初の順路を保つ山鉾巡行であったが近代化の波に揉まれ、巡行で使用される通りが前祭では四条烏丸〜四条寺町〜寺町松原〜松原東洞院で、後祭が三条烏丸〜三条寺町〜四条寺町〜四条東洞院だったのが、前祭が通る松原通が狭いなどを理由に昭和31年から四条烏丸〜四条寺町〜四条御池〜寺町御池〜御池烏丸となり、さらに昭和36年に四条烏丸〜四条河原町〜河原町御池〜御池烏丸となった。

観光の発展から京都市の発案により、昭和47年に人気の低かった後祭が前祭と合併し、山鉾巡行は7月17日のみとなった。代わりに花傘巡行が行われるようになった。

しかし、伝統を重んじて後祭の復活が望まれ、平成26年に順路を前祭の逆を行く事として再開した。この時に禁門の変で消失した大船鉾が後祭に復活することになった。

そして、蛤御門の変で消失した鷹山が令和元年に唐櫃で後祭巡行に参加し、令和4年には山も復活して山鉾巡行に参加する。ごれで三十四基の山鉾が巡航することになる。

こうして千数百年も長い歴史を保つ祇園祭は、山鉾を動かす町衆達によって支えられている。

民衆による先祖の送り出し、他にもあった五山送り火

都の夜空で輝く五つの山の字と絵柄は、夏の終わりを思わせる行事だ。しかし、いつ頃から行われているのか正確な伝承には欠ける。

大文字

都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

東山の大文字は五山の中でも代表するものだが、諸説が複数あり都名所図会では平安時代の初め、如意ヶ嶽の麓にあった浄土寺が火災にあった際に、寺の本尊の阿弥陀仏が飛来し光明を発した。その光明を模って点火していたのを、空海が大の字に改めた。しかし室町時代になると大文字の点火は廃れ、足利義政が相国寺の横川景三和尚により命じて復活したとされる。

今では夏しか行われないが、この時代の大文字は冬にも点火され、二つの季節で楽しまれた。

船形

都名所図会第6巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

船形は西方寺の開祖円仁が承和14年(847年)に留学していた唐の帰りに暴風雨に遭い、南無阿弥陀仏と唱えて難を逃れた事から、それに因んで万燈篭の送り火をしたからとされる。それ因んでいつしか船形となった。

しかし、他の妙・法・左大文字の送り火も発祥の諸説があり、平安から室町時代にかけての伝承はどれも確証には至らない。江戸時代の文献から登場したこれらの絵や字は、江戸初期の能筆家で三筆の一人、近衞信尹による筆画によるものだとも言われている。

また、この他にも市原の「い」、鳴滝の「一」、西山の「竹の先に鈴」、北嵯峨の「蛇」、観空字村の「長刀」もあったが、それらは次第に失われた。

いつ頃から何のために行われているのか不明な送り火ではあるが、お盆で現世に戻ったご先祖をあの世に送り出す精霊送りに代わりはなく、民衆による伝統行事として今も行われている。

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2022.09/29修正)

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
祇園祭 温故知新(淡交社)
祇園祭と戦国京都(宝蔵館文庫)
「京都 鴨川納涼床」の変遷に関する研究(鈴木 康久)
200年前の京都(実業之日本社)
大文字五山送り火(光村推古書院)