第35回・平安京を流れる川

京都を上から下へ流れる鴨川は平安遷都から神聖な川として禊の場として利用され、また住民たちの憩いの場だった。また架けられた橋は時代を表すモニュメントとしても機能していた。

鴨川になる川

志明院(北区雲ケ畑出谷町)

拾遺都名所図会第4巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第4巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

鴨川は今出川から賀茂川と高野川と合流する河川だ。今出川より上は賀茂川と呼ばれ、雲ヶ畑へ遡上していと桟敷ヶ岳(さじきがたけ)を源流とする何本かの川に分かれる。そして賀茂川の源には志明院という650年に役の行者によって草創し、空海によって再興された寺院がある。神秘的な雰囲気は司馬遼太郎が気に入り、ジブリアニメの「もののけ姫」のイメージとなった。

賀茂川は貴船神社の貴船川と鞍馬寺から流れる鞍馬川と合流し、上賀茂神社の横を流れ下鴨神社へと向かう。

中川

中川は上御霊神社の前を流れていた川で賀茂川が分岐して御所まで流れていた。

賀茂川は洛北の寺社からの清らかな水として崇められた。

高野川

拾遺都名所図会第3巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

高野川は滋賀県大津市との境にある途中峠の門跡川を水源とする。大原を流れる高野川は東の鯖街道と並行して栄え、また都から離れた隠住の地として建礼門院の寂光院がある。

高野川を下ると八瀬(壬申の乱の際に大海人皇子が背中に傷を受けて治療したとされるかま風呂がある。八瀬=矢背とも言われる)や修学院周辺の山端を通り今出川で賀茂川と合流する。

拾遺都名所図会第3巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

下流に行くと山端という場所に現代でも営業している麦飯を食べれる茶屋がある。

白川

都名所図会第3巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第3巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第3巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

白川は比叡山や大文字山といった如意ヶ岳の東山連峰を水源とする。白川の語源は風化した花崗岩によって川底が白く見えることからつけられた。その花崗岩は石工として栄え、建築用材や砂として販売された。銀閣寺や金戒光明寺の近くを通り、現在の岡崎を経て、四条大橋の近くで合流する。

鴨川の風景

拾遺都名所図会第3巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

賀茂川と高野川が今出川で合流し、鴨川と呼ばれるようになる。今出川から東へ如意ヶ嶽を俯瞰した絵図。鴨川へ流れる砂川は現代ではその痕跡はわからない。

拾遺都名所図会第3巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

江戸時代でも芋のように河原で遊興の場とし親しまれた。また上流周辺は平安時代から穢れを落とす場として使われ神聖な場所だった。

都名所図会第1巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

鴨川は氾濫が平安時から多く、防鴨河使が置かれ、堤防が作られた。それでも氾濫し白河法皇の「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕が心に随わぬ者」と上げるほどだった。

近世になると豊臣秀吉による御土居が鴨川沿いに作られ、江戸時代の寛文8年(1668)に今出川と五条の間に寛文新堤が作られ、川幅が狭まり先斗町ができた。

鴨川に架かる橋と高瀬川

三条大橋

都名所図会第1巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第1巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

鴨川に架かる橋は、平安時代からあったとされる三条橋から四条橋、今の松原橋にあたる五条橋は洪水による流出もあり、仮設橋に近い代物だった。

江戸時代の承応3年(1654)には11の橋がかけられていた。中世時代までは重要視されなかったが三条橋、秀吉によって天生17年(1589)に真田長盛に架橋を命じて63本の石柱による橋を作り、翌年できた三条橋は欄干に擬宝珠が飾られた、従来の概念を変えた人道橋となった。これにより三条橋は京都の玄関としての性格を持ち、江戸時代に東海道の京都側の起点となった。三条大橋は公儀橋として五条橋と並んで屈指の規模で、その面影は当時の石柱が現在の三条大橋西詰に飾られている。

伊勢参宮名所図会1巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

後に鴨川に架かる橋を三条大橋と言い、高瀬川に架かる橋を三条小橋と言うようになった。

伊勢参宮名所図会には、人は橋を渡るが牛車は河原に降りて川を渡る様子が描かれている。三条から山科を経て大津への道には、牛車の車輪が動きやすいように石が線路のように引かれた車道が整備された。

四条河原

都名所図会第1巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

四条橋は中世では主に祇園祭の祭礼で神輿が渡る仮設の橋として、祭礼用と人道と並んで橋が二つ作られた。秀吉による御土居の造成により鴨川が渡れず、神輿の道順が変更された時期もあったが、家康により御土居が一部壊され通れるようになった。

江戸時代も橋は架けられたが、三条や五条の橋ほどのものではなかった。

五条橋

都名所図会第2巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

現在の五条橋は秀吉によって北にある松原橋から架け替えられた橋である、中世までは五条橋だった松原橋は清水寺へ参拝するための橋だったが、秀吉の方広寺造営により六条通りが五条通となり、新たに架けた橋である。三条橋とともに五条橋も天正17年に完成し、同じく石柱による立派な橋だった。

都名所図会第2巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

中世の五条橋の河原は今よりも幅が広く中州があり二つの橋がかけられ、その中州に法城寺という寺がありそこに安倍晴明が葬られたとされる清明塚があった。法城寺は後に三条東の心光寺へと移された。

七条河原

都名所図会第2巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

七条橋は公義橋だったものの、やはり簡素な作りで四条橋よりも下のランクだった。絵図では稲荷祭で八条の御旅所へ向かう神輿行列が描かれている。四条橋の祇園祭の神輿の橋は町衆が渡る橋とは別の橋が使われると同様の様子が伺える。

高瀬川

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

自然の川でない人工の河川である高瀬川は、水位の変わり水運として利用できない鴨川に対して、角倉了以によって慶長16年(1611年)に開削されて作られた。二条樋口から竹田街道の勧進橋付近で鴨川を跨ぎ、伏見の港まで繋ぐ。

二つの堀川

堀川

都名所図会第1巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第1巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

堀川は平安京造営時に木材運搬のため船岡山から流れる川の流路を開削して真っ直ぐにして作られた。堀川には東側に一条戻橋に流入する小川という川があり、現在は暗渠となって地上部分は水が引いている。堀川を南下する江戸時代にと芹根水という堀川と同水位の井戸があり、名水として親しまれた。堀川が暗渠になり名所図会にある石碑は現在の堀川木津屋橋通西に移された。

紙屋川

都名所図会第6巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

紙屋川は現代では天神川と呼ばれ、今でも上流では紙屋川の名前が橋の石柱に残っている。

また平安時代に現在の堀川と対になる西堀川が作られた。西堀川は紙屋川の流路を一条大路からつけ替えて、現在の西大路通の東側を流れ流ようにしていた。しかしながら西京が荒廃し西堀川も廃れその痕跡は地下に眠っている。

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2023.1/13)

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
琵琶湖・淀川 里の川をめぐる 京の川、高野川、白川、鴨川・明神川(琵琶湖・淀川水質保全機構)
私たちの鴨川(京都府建設交通部河川課)
京の鴨川と橋(思文閣出版)
淀川水系河川絵図集(近畿地域づくり研究所)
リーフレット京都 No.237 もう一つの堀川