第30回・伏見で始まった徳川家の江戸幕府、家康が成し遂げた天下統一(1598〜1615)

天下を我がものにした豊臣秀吉は慶長3年(1598年)8月に伏見城で没した。しばらくは死んだことは隠され翌年に埋葬されることになる。

秀吉は死後の政治の運営を徳川家康・宇喜多秀家・上杉景勝・前田利家・毛利輝元の五人を五大老として、前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家を五奉行とし、当時5歳だった秀頼に仕えるように命じていました。

しかし、家康はこうした秀吉の意向を背く行動をするようになります。

家康の天下取り、関ヶ原の戦い

阿弥陀ヶ峯(東山区今熊野阿弥陀ケ峯町)
都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

秀吉が没した翌年の慶長4年に、亡骸は東山の阿弥陀ヶ峯に葬られた。そして秀吉を祀る豊臣神社が山麓に作られた(今の豊国廟周辺)。没後の七回忌には盛大な臨時祭礼が行われた。

慶長4年に家康は秀吉の遺言により伏見城に入城し政務を始めることになる。しかし、秀頼の後見人だった前田利家の死によって、秀吉の家臣団の不満が現れ石田三成は失脚する。それに乗じて家康の天下取りが着々と行われようになった。
家康は慶長5(1600年)年に利家が管理していた大坂城に入る。同年4月に五大老の一人である上杉景勝へ家康は謀反の嫌疑をかけて上洛を促しました。しかし、景勝の家臣であった直江兼続によって家康を非難した直江状を送ります。家康はそれに激怒して江戸城へ行き、景勝がいる会津へと出陣することになる。
家康に反旗を翻す石田三成は西軍を組織し、7月に丹後の田辺城にいる家康側の細川幽斎と戦います。そして8月に伏見城を攻撃し、炎上する城で守っていた鳥居元忠が自決します。

養源院(東山区三十三間堂廻り)
都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

完成からわずか2年で秀吉が築城した伏見城は焼失した。この戦いで血の足跡がついた床板は養源院といった各地の寺の天井に使われ「血天井」と名付けられて、戦いで亡くなった人を供養している。

家康は秀頼の母である淀殿を掌握して西軍側を謀反側とする時流を作り、9月15日に家康と三成による関ヶ原の合戦が行われ、それに家康は勝利し三成は京都で処刑された。

焼失した伏見城は、半年後に家康の命により再建されることとなった。

家康による豊臣家の排除、東本願寺と高台寺の創建

慶長6年(1601年)、家康は二条城を築城し伏見に銀座を作り、武力と経済で都の制圧に乗り出す。

そして豊臣家で唯一の血縁、秀頼を排除するために家康は様々な行動に出るようになる。

東本願寺御坊(伏見区大阪町)
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

秀吉により現在の西本願寺に寺を構えた本願寺派の顕如は文禄元年(1592年)11月に没した。次の宗主に嫡男の教如が就いたが、母の如春により顕如は三男の准如を推していたとする譲渡状を秀吉に渡していた。

顕如と教如は石山本願寺の明け渡しを命じた信長に対して、明け渡す意向の顕如に対して教如は徹底抗戦する立場だった。顕如が信長に屈して退去しても教如側は石山に残り抗戦したものの、後に屈服し明け渡すことになる。教如は顕如に許しを乞うたが、顕如はそれを許さず親子の間は断絶することとなった。

如春と准如による教如の宗主の追い落としは、文禄2年に秀吉により准如へ宗主を譲れとの命により、教如は本願寺の一角に隠居させられてしまう。

如春が死にそして秀吉の死んだで行われた関ヶ原の合戦後、教如は家康に謁見すべく江戸に赴き家康に歓迎された。三成側についていた准如の立場は危うくなっていった。

慶長年間に家康から教如へ与えられた伏見の東本願寺御坊は、伏見城にいた家康との密接な関係を表す。

東本願寺(下京区烏丸通七条上る)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

家康との仲を深めていった教如は、慶長7年(1602年)に家康より六条の地を寄進される。本願寺内の教如派を集め親鸞自作の親鸞像を現在の前橋にある妙安寺から取り寄せ、慶長9年(1604年)に伽藍を整えた。

教如は大坂冬の陣が始まる前に死去、子の宣如が跡を継ぎ、元和5年(1619年)に幕府から西本願寺から独立を認められて、本願寺は東西に分裂することとなった。

高台寺(東山区下河原町)
都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第2巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

。今の仙洞御所にあったとされる京都新城にいた北政所は、家康の援助を受けて慶長11年(1606年)に夫秀吉を供養するために創建した高台寺へと移った。家康は秀吉の正室だった北政所を豊臣側から引き入れる策にも受け取れる。

角倉了以の高瀬川、大仏の前で豊臣家に反旗を翻す家康の罠

慶長8年(1603年)家康は再建した伏見城において征夷大将軍を宣下され、江戸幕府を開く。慶長10年(1605年)に息子秀忠が将軍の宣下を受けたのも伏見城だった。家康は慶長12年に駿府城に入るまでほとんどの期間で伏見城で政務をしていたとされる。

大堰川
都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

朱印船を用い主にベトナムと貿易を行なっていた角倉了以は、丹波から流れる大堰川での舟運をすべく、江戸幕府に働きかけ慶長11年(1606年)に川の開削を行った。短期間で開削を行った了以はその手腕を買われ、淀川・富士川も開削し舟運事業者として名を馳せるようになった。

高瀬川
都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

慶長の大地震により損壊した方広寺の大仏は秀吉の死後、大仏のない状態で開眼供養が行われた。秀吉の息子秀頼は慶長7年(1602年)に大仏の再建を試みるが鋳造中に火災が起き一度は頓挫した。しかし慶長13年(1608年)に再び再建を試みる。

洛中と伏見を繋ぐ高瀬川は、秀頼から大仏再建の資材運搬の運河として角倉了以・素庵親子により慶長14年に開削され、翌年に六条まで完成した。利便性が認められ開削が進み、慶長19年に二条通りまで作られた。

慶長17年(1612年)、大仏は三度目の再建がなされた。慶長19年(1614年)に開眼法要が行われた。

この開眼法要に呼ばれた家康は、方広寺の鐘に刻まれた銘文「国家安康」「君臣豊楽」に徳川家を陥れる思惑があるといいつけた(方寺鐘銘事件)

このことに発して同年11月に大坂城での徳川家と豊臣家による戦い、大阪冬の陣が行われた。そして翌年の慶長20年(1615年)4月、夏の陣により秀頼は燃える大坂城で母淀君と共に自害し豊臣家は滅亡した。

秀吉を祀る豊国神社は家康によって潰され、方広寺の大仏は残り都の観光名所であったが、寛文2年(1662年)に地震により損壊、修復されるも寛政10年(1798年)7月に落雷により焼失。天保年間に有志により上半身だけ再建されたが、昭和48年に火災により焼失し、秀吉の大仏は姿を消した。

慶長から元号が変わり元和元年(1615年)7月に伏見城において武家諸法度が発令された。長い戦国時代が終わり、家康による天下統一は成し遂げられたが、元和2年(1616年)正月に駿府城にて病に倒れ、同年4月に75歳で没した。

こうして徳川家による260年間もの平和な時代が続くことになる。

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2022.3/6)

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
一冊でわかる戦国時代(河出書房新社)
本願寺はなぜ東西に分裂したのか(扶桑社新書)
天下人の城(京都市文化財ブックス)
平安京(京都市文化財ブックス)
光秀その後の亀山(亀岡市文化資料館)