第27回・戦国時代の都で散る信長と光秀(1540〜1582)

応仁・文明の乱から山城国一揆と都の政教は混沌としていった。天文5年(1536年)に比叡山と法華一揆による天文法華の乱により下京が荒廃し、立場を失う室町幕府の足利家と、将軍家を暗殺までする有力武家達の台頭、そして武力に抵抗する寺院や民衆達の混沌した時期になり、そこに尾張から織田信長が都に入洛し政治を席巻することになる。

信長と義昭の共闘、そして室町幕府崩壊

行願寺(中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町)

都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

革堂で親しまれる行願寺は、行円が鹿を射止めた腹を割いた際に子鹿を見て殺傷の悔いを改め、鹿の皮を衣にして念仏を唱え、千手観音を祀って開山したとされる。
元は一条小川にあった。応仁の乱以後は上京の民衆の心の拠り所なり、また下京でも六角堂がそれにあたり、二つの寺は民衆の集会所となった。
のちに秀吉の名により寺町通に移転する。

中尾城(左京区浄土寺大山町)

拾遺都名所図会第3巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

天文18年(1549年)に室町幕府12代将軍足利義晴が銀閣寺の東の山中に築いたのが中尾城。鉄砲を用いた戦術対策で、鉄砲への対策が施された初めての城とされる。
三好長慶との戦いで使用されたとされ、義晴の息子で13代将軍義輝は戦いに敗れ落城し、近江に逃れた。
その後、義輝は都に戻り二条(今出川千本)に邸宅を構えたが、永禄8年(1565年)に京都を制圧していた三好義継らに襲撃され、命を落としてしまう。

清浄華院(上京区寺町通広小路上ル北之辺町)

都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

混沌とする都の政治に打開すべく、永禄7年(1564年)に町衆の立入宗継は正親天皇の綸旨を持って織田信長に上洛を促したとされる。浄華華院は立入家の墓があり、宗継の顕彰の碑がある。
清浄華院は平安時代に御所内に作られた禁裏内道場で、後に法然上人に与えられた。現在地へは秀吉時代に移転した。

勝龍寺城跡(長岡京市勝竜寺)

都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

永禄8年(1565年)、松永久秀に囚われていた奈良興福寺の僧侶だった義輝の弟の覚慶は、7月に久秀から逃げると近江の六角氏の援護の元、甲賀や矢島(守山)で上洛の機会を伺います。しかし都は三好三人衆(三好長逸・三好政廉・石成友通)が支配して入ることができない。
永禄9年(1566年)、覚慶は義秋と名乗って還俗するも、六角氏が三好勢と手を組み若狭や越前でへと移動し義昭と名を変え、永禄11年(1568年)7月に美濃で織田信長に会うことになった。
そして9月に信長は将軍就任を画作する義昭に即され出兵をし、六角氏を打ち払い上洛して東寺を拠点とした。都を支配する三好勢の石田友通を勝竜寺城から追払い、都から逃れる三好衆の抵抗地となった摂津で池田勝正に勝利し、10月に義昭は征夷大将軍となり室町幕府が再び機能することとなった。
元亀2年(1571年)に信長は細川藤孝(幽斎)に城を与え、勝竜寺城は改修され都への重要な拠点となった。

明智光秀はこの時期から義昭と信長が関わる戦いに参加し、光秀は信長軍で頭角を表していく。

釣月・槇島城(宇治市槇島町薗場)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

信長は義輝と政権を運営し、元亀2年(1571年)に抵抗する比叡山を焼き討ちにして、各地の抵抗勢力を排除していった。しかし信長と義輝の関係は早くも破綻し、天正元年(1573年)に義輝は信長に挙兵をして槇島城で籠城するも、戦いに敗れ都から追放され室町幕府は崩壊した。

光秀の裏切りによる本能寺の変

愛宕神社(右京区嵯峨愛宕町)

都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

信長の腹心であった光秀は天正3年(1575年)に丹波攻略を命じられ、天正5年(1577)に亀山城を築城、天正7年(1579年)に丹波を平定する。
天正10年(1582年)5月に信長から西国で毛利氏と戦う羽柴秀吉への援軍を命じられた。
光秀は進軍する直前、亀山城から愛宕山に向かい愛宕神社で「ときは今、あめが下しる、五月かな」と連歌会で歌い、信長への反抗を画作していたとされる。

本能寺(中京区寺町通御池下ル下本能寺前町)

都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

天正10年(1582年)6月2日、亀山城から西国へ進む光秀軍は分岐点である沓掛で西国には向かわず都へ入り、そのまま信長を急襲した。
不意を取られた信長は「是非に及ばず」と抵抗するも軍勢に押され、最後は自害したとされる。
本能寺の変当時の本能寺は蛸薬師油小路通にあった。戦いにより全焼したが、秀吉によって現在の場所に移転した。

二条殿跡(中京区二条殿町)

拾遺都名所図会第1巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

同日にいた信長の長男信忠も襲われ、妙顕寺から二条殿に逃げるも信長と同じく自害することとなる。

阿弥陀寺(上京区 今出川上る二丁目鶴山町)

都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

信長の遺骸は見つからなかったとされるが、阿弥陀寺の清玉上人が駆けつけると、本能寺の近くで信長の遺体を焼く家臣と出会い、骨となった信長を寺へと持ち帰ったとされる。
戦いが終わり上人は光秀に陣中見舞いをして、信忠ら家来の遺骸を持ち帰ることを交渉し、阿弥陀寺に葬られたとされる。
阿弥陀寺は本能寺のあった北の上京区の大宮上立売にあったが、秀吉の命に寺町通りへ移転させられた。

宇治田原(宇治田原町)

都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

堺にいた徳川家康は本能寺の変を聞き、急いで三河に帰る際の道として山口城のあった宇治田原を通ったとされる。「神君伊賀越えの道」として伝わる。

光秀の三日天下を破る秀吉

山崎(大山崎町円明寺松田)

都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

信長・信忠を討ち取った本能寺の変により、光秀は天下を掌握するかに見えたが、長くは続かなかった。

信長が討たれるの知らせを受けた秀吉は西国から戻り、信長の三男信孝や丹波長秀・高山右近らと征伐軍を組織し、山崎で光秀と対峙する。
6月13日の夕方に戦いが始まり、夜にかけて戦うもの戦局は悪化し光秀は勝龍寺城へ撤退、さらに近江の坂本城へ退却を余儀なくされる。

洞ヶ峠(八幡市八幡南山)

都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

光秀と秀吉の戦いは他の武将も注目していた。洞ヶ峠では筒井順慶が戦局を見極めていたという伝承が残るほどだった。

小栗栖・本経寺(伏見区小栗栖小阪町)

拾遺都名所図会第2巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

光秀は坂本城へ逃げる途中、小栗栖の竹藪で地元の武士狩りに会い重傷を負う。死を悟った光秀は部下に解釈を頼み、首は持ち去られた。

明智光秀の首塚(東山区梅宮町)

都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
拾遺都名所図会第3巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

光秀の首は秀吉側に見つかり蹴上もしくは本能寺にて晒されたとされる。その後、三条通に首塚が作られた。明治に入り首塚は白川沿いに移転することとなった。

信長の入洛から光秀の謀反と都は戦国時代の大きな転換点となった。光秀の死後、秀吉は天下人となり都の支配者となっていく。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
丹波決戦と本能寺の変(亀岡市文化資料館)
明智光秀と戦国京都(京都文化博物館)
信長上洛(京都文化博物館)
光秀と京(京都市歴史資料館)
描かれた山崎合戦(大山崎町歴史資料館)
天下人の城(京都市文化財ブックス)
家康伊賀越えの道KYOTOガイドマップ(お茶の京都DMO)

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.7/25)