織田信長

取材紀行
秀吉と家康、二人の出生の地を巡りながら、伏見城の歴史的意義を考える

京都市にあった城といえば二条城が有名ですが、城郭が残されていない城が他にもあり、それは豊臣秀吉が築いた城で聚楽第・伏見城・向島城・京都新城の三つが挙げられます。 特に伏見城は秀吉がそこで亡くなった城であり、徳川家康が江戸 […]

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都名所図会で辿る江戸時代の京都
第28回・都の新たな支配者、豊臣秀吉(1582〜1592年頃)

明智光秀が敗れた後、羽柴秀吉は織田軍勢内で地位の確保に動いた。6月に清洲において信長の後継を決める際に秀吉は信忠の息子で3歳の三法師を担いだ。これにより柴田勝家との亀裂となった。秀吉はさらに天正10年(1582年)10月 […]

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都名所図会で辿る江戸時代の京都
第27回・戦国時代の都で散る信長と光秀(1540〜1582)

応仁・文明の乱から山城国一揆と都の政教は混沌としていった。天文5年(1536年)に比叡山と法華一揆による天文法華の乱により下京が荒廃し、立場を失う室町幕府の足利家と、将軍家を暗殺までする有力武家達の台頭、そして武力に抵抗 […]

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取材紀行
京都で散った織田信長、各所に作られた信長の墓を巡ってみる

天正10年(1582)6月2日、明智光秀による織田信長への急襲による本能寺の変は、戦国時代最大の事件であるとともに、現在でも様々な原因の究明がされています。信長の墓は同じく討たれた信忠とともに、墓は京都市内に複数箇所あり […]

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