第16回・藤原氏による貴族社会の終焉(920〜1050年あたり)

平安時代を摂関政治で支配した藤原氏は、兼家・道長・頼道の3代が頂点といえる。特に道長は我が世の春を歌い、巨大な伽藍を作るほどの権力を持った。

西京

拾遺都名所図会第1巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

10世紀になる頃から、左右対称として作られた平安京は西の方が寂れ、東側が繁栄するようになった。そのため東山周辺に大伽藍が作られるようになる。

法性寺(東山区本町16丁目)

拾遺都名所図会第2巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

藤原忠平が延長3年(924年)に建立した寺院。藤原家の氏寺として、ひ孫の道長により五大尊像と五大堂を造営して巨大伽藍となった。のちに保元3年(1158年)に忠通が関白の座を譲り法性寺に隠居した際には、法性寺関白(入道)と呼ばれるようになった。
嘉禎2年 (1236年)に東福寺が造営される際に寺地を渡し、応仁・文明の乱で衰退した。現在の寺は明治時代に再興された。安置されている千手観音は法性寺のものと伝えられる。

誠心院(中京区新京極通六角下ル)・法成寺跡(上京区荒神口寺町通東入ル)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

誠心院は藤原道長の娘、一乗院中宮彰子に使えていた和泉式部が娘の死により仏門に入り、道長が法成寺の東北院に小御堂を与え、紫式部が住職を務めた。
法成寺は道長が寛仁3年(1019年)に無量寿院として造営し、阿弥陀信仰を信じた道長により大伽藍となった。のちに焼失し頼道によって再建されたものの、焼失を繰り返し鎌倉時代には廃寺となった。
誠心院は一条小川にて再建、天正年間に豊臣秀吉により現在の地に移った。禁門の変の火災により焼失、明治4年に新京極通の整備により寺地は縮小された。

浄瑠璃寺(木津川市加茂町西小札場)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第5巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

永承2年(1047年)に創建。九体の阿弥陀如来を安置する本堂、中央の池と薬師如来を安置する三重塔で構成された、極楽浄土の世界が表現されている。
平安時代に都を中心に30以上も同じ様式の寺が造営されたが、残るのは浄瑠璃寺のみであり、九体の阿弥陀如来や四天王立像が全て国宝という、京都府下で平安時代からそのままの形で現存する寺として貴重な存在である。

平等院(宇治市宇治蓮華)

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

釈迦の没後2000年にあたる永承7年(1052年)に、末法思想により藤原頼道が道長の別荘を寺にし、翌年の天喜元年(1053年)に鳳凰堂を建立し大日如来を安置した今の形になった。鳳凰堂は東側に建てられ、池を挟んだ西側は西方浄土を表す。
壮大な伽藍が造営されたが、歴史上度々宇治橋とともに戦地になり、戦火によって衰退したが、明応年間(1492〜1500年あたり)に復興された。

平安時代も後期となると、上皇による院政が始まり、そして源平による武家の台頭と、貴族社会は衰退するようになる。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
木津川市観光ガイド
百人一首で京都を歩く

中公新書 藤原氏―権力中枢の一族