都名所図会で辿る江戸時代の京都・ 6

空海と最澄、坂上田村麻呂の時代

平安時代初期は、最澄と空海による密教についての探求の時代であった。二人は延暦23年(804年)に唐に渡り密教を学び、最澄は天台宗(台密)を、空海は真言宗(東密)を開宗した。
最澄は弘仁13年(822年)に没し貞観8年(866年)に伝教大師を、空海は承和2年(835年)に没した後の延喜21年(921年)に弘法大師の諡号を賜与された。

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

最澄は延暦4年(785年)に比叡山に一乗止観院(比叡山寺)を建立した。弘仁13年(822年)に没した7日後に大乗菩薩戒を勅許され、弘仁14年(823年)に嵯峨天皇から扁額を勅賜され延暦寺となった。

都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

神護寺は元は高雄山寺といい、平安京遷都を進言した和気清麻呂が河内国の神願寺と共に780年頃に建立した。最澄は清麻呂の子孫の招きで延暦21年(802年)に法華会を、唐から帰った延暦24年(805年)に日本で初めて潅頂を行う。
空海は大同4年(809年)から入山し、ここで14年を過ごした。のちに天長元年(824年)に両寺は合併し神護寺となった。
空海は仁2年(811年)に乙訓寺を別当し、嵯峨天皇から弘仁7年(816年)に高野山を、弘仁14年(823年)に東寺を下賜された。

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

清水寺は奈良時代の宝亀9年(778年)に大和にいた僧の賢心がお告げで音羽山に赴き、そこで出会った行叡居士から霊木を授かり草庵を作った。
その後の宝亀11年(780年)に坂上田村麻呂が音羽山で鹿狩りをした際に、賢心から音羽山での殺生の戒めに感銘を受け、夫人と共に十一面千手観世音菩薩を作り、お堂を建てたのが始まりとされる。

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第2巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第2巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

坂上田村麻呂は蝦夷征伐を行い、征夷大将軍を授かり武人として名を挙げた。薬子の変(大同5年・810年)にも関わり、弘仁2年(811年)に死去した際、嵯峨天皇が山科の栗栖野に甲冑を着せ都に向いて立たせて埋葬されたとされる。平安京に災いがあるときは、墓から地鳴りがしたという。
現在の坂上田村麻呂碑がある場所は、明治28年(1895年)に平安遷都1100年記念祭による整備されたもの。他に北に位置する西野山古墓も候補となっている。

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第5巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第5巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

桓武天皇は延暦25年(806年)に崩御。葛野郡に埋葬されたが、山火事による近くにあった加茂社の祟りにより紀伊郡に埋葬される。江戸時代は現在の柏原陵と違い深草谷口村にあったが、当時でも場所は特定されていない。真の桓武天皇陵は伏見山のどこかにあるとされている。

参考文献 
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
フィールド・ミューアジム京都
京都観光Navi
各寺社の公式サイト