第3回・平城京から長岡京、そして平安京へ(784〜794年)

延暦3年(784年)、桓武天皇は政治の刷新を狙い平城京から山背国乙訓郡に遷都への決断し、長岡京を造営した。

長岡京跡(向日市・長岡京市)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 


京域は東西4.3km、南北5.3kmとなる、ほぼ平安京と同規模の大きさだった。

乙訓寺(長岡京市今里)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

しかし、政治の混乱は治まらず桓武天皇の幕僚である藤原種継が暗殺され、首謀者として大伴氏と皇太子で桓武天皇の弟である早良親王が捕り、親王は乙訓寺に幽閉され、無実を訴えました。罪は晴れることなく死去した後には死後処刑として淡路島へ葬られた。
だが度重なる大水害の被害や伝染病の流行、桓武天皇の母である高野新笠と皇后藤原乙漏が相次いで亡くなり、治世は治まらず、それは早良親王の祟りとして恐れられ、長岡京はわずか10年で廃都となり、平安京に遷都された。

大原野神社(西京区大原野南春日町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

延暦3年(784年)、長岡京に遷都した際に桓武天皇皇后の藤原乙牟漏が奈良の春日大社を勧請し、嘉尚3年(850年)に藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇が社殿を建てた。藤原氏の氏神である春日大社の最初の分社となる。紫式部が小塩山を歌に詠み、源氏物語にも登場する。
応仁の乱で荒廃、のちに後水尾天皇が再建した。 

上御霊神社(上京区上御霊竪町)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

下御霊神社(中京区寺町通丸太町下る)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

崇道神社(左京区上高野西明寺山)

拾遺都名所図会第3巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第3巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

平安京遷都後に早良親王の怨霊を抑えるため上御霊神社と下御霊神社、そして高野神社(現在の崇道神社)が作られた。
長岡京は長く幻の都として語り継がれましたが、昭和29年から中山修一氏の発掘調査により、全貌が明らかとなった。

参考文献 
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブフィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
向日市・長岡京市WEBサイト

桓武と激動の長岡京時代