コース案内・明智光秀の最後の戦い、山崎合戦を辿る

天正十年(一五八二)年六月二日、羽柴秀吉の援軍として亀山城から出陣した明智光秀は、なぜか西国に向かわず都に入っていた織田信長を本能寺で、息子の信忠を二条御所で討ち取りました。そして秀吉は中国大返しと呼ばれる尋常ではない移動速度で短期間の内に戻り、十三日に光秀と山崎で対峙します。
光秀はこの戦いに敗れ、近江の坂本城に退却する道中、十三〜十四日の夜半にかけて小栗栖の地で落武者狩りにあい、重傷を負った光秀は付き添いの武士の介錯で命を落とします。
未だに謎の多い戦国時代最大の謀反は、信長・光秀・秀吉の間にある天下統一という大義に揺れ動いた事件でした。
この山崎合戦に関する史跡は多数あります。それらを辿って光秀最後の逃避行を辿ってみます。

山崎合戦を展望タワーから見る

さくらであい館

八幡市の宇治川・桂川・木津川の三川合流にあるさくら出会い館。サイクリストにはお馴染みの場所ですね。

展望タワーにあるパネル

展望塔には山崎合戦の光秀・秀吉の両布陣を説明するパネルがあります。

展示パネル

北側に光秀軍、南側に秀吉軍が対峙します。ちなみに目前に流れる宇治川・木津川は明治時代に付け替えられているので、現代とは風景が違います。

展望塔から山崎を見る

では山崎合戦の地に行きましょう。

光秀の本陣はどこか?

天王山ゆめほたる公園

高速道路高架下にある天王山夢ほたる公園。光秀軍の兵士一万六千に対し、秀吉軍は信長の三男信孝、丹羽長秀、高山右近、中川清秀、池田恒興の四万となって、光秀軍を圧倒しました。

円明寺川

六月十三日夕刻に戦いが始まり、円明寺川を挟んだ両軍の戦いでは鉄砲の音が京都まで鳴り響いたといわれます。

明智光秀本陣跡

明智光秀の本陣とされる場所は二箇所あります。一つはサントリービール京都工場の南側にある境野1号墳だと言われています。

恵解山古墳

もう一箇所は境野1号墳の北側にある恵解山古墳であると言われています。

恵解山古墳のパネル

パネルには本陣の可能性を示す解説があります。

恵解山古墳の頂上から

恵解山古墳頂上から合戦の地を見ます。光秀は悪化する戦局を見てどう思ったのでしょう。

娘ガラシャとの思い出の城、勝龍寺城

勝竜寺城公園

秀吉軍に押される光秀軍は勝龍寺城に逃げ込みます。しかし手狭な勝竜寺城では秀吉軍の大軍には対峙できないため、光秀は夜半に脱出し、近江の坂本城へと向かいます。勝龍寺城では大きな戦闘にならず秀吉軍に占拠されました。

勝竜寺公園の門

勝龍寺城は応仁の乱で畠山義就が陣城し、後に織田信長が上洛の際に岩成友道を攻め、細川藤孝が入城します。
その息子の細川忠興は光秀の三女の玉を正室に迎ます。後に細川氏は丹後宮津城へ玉も付き添います。本能寺の変から山崎合戦で光秀が死に、玉はキリスト教に救いを求めてガラシャの洗礼名を受けます。ガラシャは関ヶ原の戦いで人質になることを拒否して、家臣に命じて自らの命を落とします。
光秀は玉がお輿入れをした勝龍城を後にします。

小栗栖での最後

小栗栖

伏見区と山科区の境に近い明智薮は住宅地の奥にあります。

小栗栖

路地に入ると本経寺と明智薮との分岐点があります。

本経寺の碑

本経寺には光秀を供養する碑があります。

明智薮の碑

先程の分岐に戻り、細い路地を進むと立派な碑があります。

明智薮の札


更に進むと明智薮の木札があります。
十三日の夜から十四日未明にかけて光秀は坂本城へと行く途中、小栗栖で落武者狩りにより重傷を負い、臣下に介錯を命じて絶命したとされます。
しかし勝龍寺からの敗走ルートはよくわかっていません。おそらくは久我畷(乙訓から下鳥羽を経由して都に入る古道)〜下鳥羽(光秀が本能寺の変の際に本陣にしたとされる)〜深草から山を超え(明智越)て来たと言われています。
また十五日説もあり、ここより南にある宇治市の神明神社には光秀が隠れたとされる藻隠井戸という言い伝えから、勝龍寺城から東へ巨椋池を渡り大和街道を北上して醍醐で襲われた説もあります。

整地された薮

今では山の薮はすっかり造成されてしまい、昔の面影はありません。

小栗栖城跡

東側の右手にある小山が小栗栖城跡。室町時代に信濃国飯田城主伊豆守(飯田氏)が築いたとされています。光秀の時期にまだ城があり、飯田氏が通りがかった光秀の殺害に関与したかは不明ですが、危険な道中であったと推測されます。

明智光秀の胴塚

明智薮から北へ行くと明智光秀の胴塚があります。
痛手を負った光秀は介錯により首を落とし、胴体はこの地に埋めたとされます。首は臣下が持ち去りましたがその後の伝承は多く、粟田口にて埋められその後に五重石塔による首塚が作られました(明治に入り現在の白川沿いに移転された)。また亀岡や宮津にも首塚はあり、もしくは首と胴が秀吉側に見つけ出され蹴上または本能寺で晒されたとされます。

光秀の謀反は四国の長宗我部氏への信長の変心によるもの、が最近の研究で言われています。しかし戦国時代最大の事変は、まだまだ真相の解明の余地はありそうです。

参考資料
明智光秀と戦国京都(京都文化博物館)
丹波決戦と本能寺(亀岡市文化資料館)
光秀と京(京都市歴史資料館)
山崎合戦と恵解山古墳(長岡京市埋蔵文化センター)
描かれた山崎合戦(大山崎歴史資料館)
京都府中世城館跡調査報告書 第3冊
フィールド・ミュージアム京都
勝龍寺城跡パンフレット
おおやまざき散策マップ

NHKシリーズ NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 麒麟がくる – 明智光秀とその時代

中公新書 明智光秀―織田政権の司令塔