鳥羽伏見の戦いの史跡巡り
日本の近代を象徴する明治維新は、日本での最後の内戦から始まりました。正月早々の慶応4年1月3日(西暦では1868年1月27日)に、鳥羽の鴨川に架かる小枝橋で新政府軍と旧幕府軍との武力衝突が行われました。それは国内で1年4ヶ月にも渡る「戊辰戦争」となる出来事の発端です。
勃発の地となった伏見から樟葉にかけて、当時の戦いの跡を示す碑や案内があります。代表的なものを紹介しながら辿っています。
勃発の地、小枝橋

慶応3年10月に行われた大政奉還後、翌年の慶応4年に徳川慶喜が率いる会津藩と桑名藩の旧幕府軍が大阪城から進軍し、都の入り口となる小枝橋で新政府軍の薩摩藩と対立します。橋を通せと迫る旧幕府軍に対し拒否をする新政府軍との対峙は、1月3日の申の刻(16時ごろ)に薩摩軍が旧幕府軍に対して不意を突く形で大砲を打ち込みます。
小枝橋は名神高速道路京都南インターチェンジ西側にあります。現在の橋は建て替えられた際に道がつけ替えられており、当時の場所は南側の道路になります。

小枝橋の東側にある鳥羽離宮跡公園には鳥羽離宮の名残の秋の山があります。この山の影に隠れて薩摩藩は旧幕府藩に大砲を撃ったとされます。

案内の石板にはこう書かれています(フィールド・ミュージアム京都より転載)。
鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地
小枝橋
小枝橋は、慶応四年(一八六八)正月三日に京都を目指す幕府軍とそれを阻止しようとする新政府軍が衝突し、
翌年の夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まったところです。
大政奉還し大阪城にいた徳川十五代将軍慶喜は薩摩を討つため上洛を決意します。
大阪から淀川を上がって竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、
幕府軍本隊が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しようとします。
これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、城南宮周辺に布陣し、
鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で衝突します。
「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」
という幕府軍と、
「勅命ありとは聞いていない、通せない」
という新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩がア-ムストロング砲を発射、
この砲声を合図に幕府軍一万五千人と新政府軍六千人の激しい戦いが始まります。
こうして始まった戊辰戦争は、翌年の函館五稜郭の戦いまで続いて新政府軍が勝利します。
新しい時代「明治」、ここ伏見から始まったともいえます。
火の海となった伏見の町

大砲が鳴った同時刻、対峙していた伏見の奉行所に陣を置く旧幕府軍と御香宮神社の長州藩とが戦いを始めます。

御香宮神社と伏見奉行所は南北に通り一つ挟んだ位置となっており、両者は鉄砲を撃ち合い激しい戦いとなりました。戦いの果てに伏見奉行所は燃えます。

翌日の4日になると市街戦となった両軍の激戦により、伏見の町はほとんど燃えたとされます。街の中心にある京橋や向島にかかる観月橋は戦闘により破壊されました。
旧幕府軍は1万5千人に対して新政府軍4千5百人(軍勢には諸説あり)と数では優位でしたが、錦の御旗を掲げる政府軍に慄き劣勢となり旧幕府軍は大阪方面へ敗走します。
敗走する旧幕府軍

1月5日になると劣勢となって撤退する旧幕府軍に対し、新政府軍は追撃をします。特に桂川沿いの富の森と宇治川沿いの千両松は激戦となりました。

壮絶な戦いで両軍の兵士達は負傷していきます。激戦の場所であったことを示す墓碑が置かれています。

こうした戦闘で負傷したり死亡した兵士達は、近くの寺の境内にて救護や弔いをされたようです。法傳寺も当時は野戦病院さながらの様子だと伝えています。

淀城を拠点にして立て直しを図った幕府軍でしたが、淀城藩主の稲葉正邦によって入城を拒否されます。幕府軍は淀城に火を放ち城下は焼失します。

敗走する旧幕府軍は旧幕府軍が作った橋本陣屋や樟葉砲台のある八幡周辺に集まります。6日に男山や橋本周辺で両軍が戦闘を行い、八幡の町も市街戦となりました。石清水八幡宮の祭神も戦火を免れる為に他の場所へと移されました。淀川の対岸の高浜砲台からは砲弾が撃たれ、寺社や家屋の大半が焼失しました。旧幕府軍はさらに劣勢となります。

6日の夕方になると樟葉砲台で指揮を執っていた旧幕府軍の総督は撤退を決め、大阪城へと敗走します。その夜に大阪城にいた慶喜は会津藩主の松平容保らと脱出し江戸へと戻ります。
今に伝える鳥羽伏見の戦いの言葉

江戸では慶喜は江戸城を無血開城をして江戸幕府は終わりました。しかし戊辰戦争の火種は全国に飛び火し、明治2年5月の五稜郭の箱館戦争が終結するまで旧幕府軍と新政府軍の戦いは続きました。
鳥羽伏見の戦いは明治維新となった時代の変換点でしたが、戊辰戦争に至る政局によって日本人同士が戦うという悲劇の戦いと言えるでしょう。

千両松の碑にこの悲劇を伝える碑文がこう書かれています(フィールド・ミュージアム京都より転載)。
幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない
それが日本人同族の争でもあり
いづれもが正しいと信じるまゝに
それぞれの道へと己等の誠を尽した
然るに流れ行く一瞬の時差により
或る者は官軍となり 或るは幕軍となって
士道に殉じたので有る
此の地に不幸賊名に斃れたる
誇り有る人々に対し
慰霊碑の建つるを見る
在天の魂以て冥すべし
昭和四十五年春 中村勝五郎識す

鳥羽に戊辰戦争のことを尋ねる人へ秋の山の碑には対してこう記されている(フィールド・ミュージアム京都より転載)。
鳥羽は洛南の名勝の地である。白河天皇が離宮をここに建設され,鳥羽天皇が拡張された。 歴代の天皇はしばしば行幸し楽しまれたことは歴史書に載るところである。離宮がいつ廃止されたかはわからない。 この地の人は今なお秋の山一帯を城南離宮とよぶ。秋の山に真幡寸神社があり,古くは城南神社という。鳥羽氏が代々神官として仕えている。 明治元年正月,官軍は徳川方を鳥羽街道で大敗させた。このことで鳥羽の名は有名になった。 当時,徳川慶喜は大坂城にいて,会津藩・桑名藩などの兵を京都に派遣した。 軍勢は鳥羽経由と伏見経由の二つのルートを通り,薩摩藩・長州藩などの兵は,天皇の命令によりこの二つのルートを守備していた。 鳥羽ルートには薩摩藩が当り,正月三日の日暮れに秋の山で衝突した。しばらくはげしい戦闘が続き,賊軍(幕府軍)は敗走した。 伏見ルートでも同時に戦闘が始まり,同様に官軍が勝利を収めた。 官軍は逃げる幕府軍を追撃した。慶喜はあわてて江戸へ帰り,官軍にはむかったことを謝罪した。 その後,東北で官軍にさからう者はいたが,ひと月で官軍に掃討された。 鳥羽伏見の戦は実に戊辰戦争の発端をなすものである。 今を去ること四十五年。こんにちでは明治の文明の恵みが行きわたり,戦争のことを尋ねたくても,当時のことを知る人は非常に少なくなった。 そこで真幡寸神社社司鳥羽重晴氏は鳥羽の有志と相談し,維新の偉業の基礎となった場所に石碑を建て,現在の日本の発展を記念することを計画した。 そこでわたし(筆者小牧得業)に碑文を依頼された。 そこで鳥羽伏見戦の概要を記し,あわせて鳥羽離宮のことを添えた。 これもまた古いことを究明する者にとっては見過ごすことができない。
明治四十五年二月 貴族院議員従三位勲二等小牧昌業撰
平安処士 山田得多書
現代の繁栄は過去の犠牲に成り立っていることを、こうした碑達が伝えていることを忘れてはいけない。
参考文献
フィールド・ミュージアム京都
絵と地図で見る 幕末維新(講演資料)
天下人の城(京都市文化財ブックス)
歴史たんけん八幡(八幡の歴史を探究する会)


