第20回・混迷した時代の文学者たち(1100〜1200年頃)

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、源平による政治の騒乱により都は混迷を極めた。平安時代末期は大火事・飢饉・末法思想により街は地獄さながらだった。社会情勢で、六道絵と呼ばれる地獄絵図が描かれた。そして源平の動乱により政治も不安定な時代であった。
そうした時代に反映してか、世間から一歩離れる和歌の読み手たちが現れた。

西行(1118〜1190)

西行寺跡(伏見区竹田西畑中町)

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第5巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

西行は紀州那賀郡(紀の川市周辺)で生まれたとされ(京都説もある)、元の名を佐藤義晴と言い、鳥羽院に使える北面の武士であった。武士としてエリートであったが、23歳の時に妻子を捨てて出家したとされる。
西行寺跡は佐藤義晴の時の邸宅だったとされ、江戸時代には寺があったが、明治11年(1878年)に西にある竹田の観音堂と併合して、元の地には石標と地蔵堂が作られた。

勝持寺(西京区大原野南春日町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

小塩山の麓にある勝持寺は白鳳8年(679年)に天武天皇の勅命によって創建された。
ここで西行は出家して庵を結んだ。西行は桜を愛でたので、勝持寺は花の寺という別名が付いた。

嵐山周辺・渡月橋(右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

西行は出家後、陸奥を行脚してから高野山を中心にして30年間活動の拠点とする間、吉野や京都にも頻繁に通い庵を作った。西行が京都で活動する際には、嵯峨が気にいって伝承も多い。高野山の後に伊勢といった場所でも住まいとした。
鳥羽院の武士だっため人脈も広く、保元の乱で讃岐に流された崇徳院と連絡を取り合い、没後は讃岐にお参りもした。東大寺勧進のため源頼朝に会ったり、和歌の名手であったので藤原俊成・定家といった公家との交流もあった。西行の歌は秀逸で、新古今和歌集では94首も取り上げられるほどだった。

西行庵跡・二尊院(西京区嵐山山田町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

西行が京都に結んだとされる菴は数カ所あると言われ、二尊院近くにも設けた。

法輪寺(西京区嵐山虚空蔵山町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

法輪寺は和銅6年(713年)に行基によって開創された。天長6年(829年)に空海の弟子道昌が虚空蔵菩薩を安置して嵯峨の虚空蔵さんと親しまれている。数え年の13歳の子供がお参りする十三まいりで有名だ。

西行桜・西光院(西京区嵐山山田町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

法輪寺の南にある現代の西光院にも庵を結んだとされる。ここにある桜の木は、桜をこよなく愛した西行が植えた伝承により、西行桜と呼ばれ桜の名所として賑わった。

竜門橋・歌詰橋(西京区嵯峨天龍寺北造路町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

歌詰橋は西行が嵯峨の飲み屋で客が歌った、
「つぼのうちにほひし 花はうつろひて 霞ぞ残る春のしるしに」
の返答に詰まった事に因んだ。
芹川にかかるこの橋は、後に天龍寺ができた事で竜門橋と呼ばれた。
西行はいろいろな逸話があるが、愛嬌のある話が残る。

雙林寺・西行庵(東山区下河原鷲尾町)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

東山にも西行が結んだとされる庵があり、雙林寺に止住していたとされる。
西行は72歳で大阪府南河内郡河南町にある弘川寺で亡くなったとれるが、東山で亡くなったとされる説もある。

芭蕉堂(東山区鷲尾町)

拾遺都名所図会第2巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第2巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 


東山の芭蕉菴の隣に芭蕉堂がある。西行が東山の阿弥陀坊を尋ねた際に読んだ句に因み、松尾芭蕉が西行を慕って訪れて句を読んだとされる。江戸時代中期の加賀の俳人、高桑闌更が芭蕉を偲び芭蕉堂を創建した。
西行の行動は後の歌人・俳人に大きな影響を与え、自由な生き様は模範とされた。そして様々な西行伝説が作られた。

藤原定家(1162〜1241)

定家卿の家(中京区寺町通二条上ル西側)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

藤原定家は後鳥羽上皇により勅命で作られた新古今和歌集の撰者の一人。特に定家の才能は崇拝されるほどだった。寺町二条にあったとされる邸宅に因んで京極中納言と呼ばれた。日記「明月記」で当時の公家の生活が描かれている。

二尊院・厭離庵(右京区嵯峨二尊院門前長神町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

二尊院は840〜850年の承和年間に、嵯峨天皇勅命により建立された。二尊の通り釈迦如来と阿弥陀如来を祀る
西行・定家共に二尊院の近くに住まいを作り活動していた。定家の山荘は小倉山荘と呼ばれ、江戸時代に厭離庵として再興された。

常寂光寺(右京区嵯峨小倉山小倉町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

厭離庵とは別に定家の小倉山荘だった場所と言われるのが、常寂光寺の中にある時雨亭跡とされる石碑に由来する。
同じ嵯峨の地に住んでいた蓮生(宇都宮頼綱)からの依頼により、古来より読まれている約9400首の歌から94人の歌を選び、それと定家とその時代の3人を追加して98首を選んだ。それを蓮生の中院山荘の障子色紙に書き写したのが、小倉百人一首の元と言われる。残りの2首は定家の息子為家の時に追加された。
定家の家系は冷泉家として今も京都の御苑に西に残り、和歌といった公家文化を今に伝える。

鴨長明(1155〜1216)

下鴨神社河合社(左京区下鴨泉川町)

都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

鴨長明は下鴨神社の摂社、河合社の神職である禰宜の子であった。長明が若い時に父が亡くなり、神職につけなかった。代わり和歌や琵琶の稽古に励み、平家の福原遷都にも赴いた。都に戻り源平騒乱は落ち着いたが、世の不条理を思って30歳で家出をしたこともあった。
50歳になる前に、後鳥羽院から和歌所の寄人を任された。そして後鳥羽上皇から河合社の禰宜にに就くように推されたが、長明の親族に反対され、それが要因で要職を辞して隠遁生活をするようになった。

長明方丈石(伏見区日野船尾)

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

外山(伏見区日野船尾)

拾遺都名所図会第3巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 


長明が50歳の時に出家し大原で過ごした後は、「無名抄」「発心集」が書かれた。58歳の時に醍醐の日野の山奥の岩に方丈(3メートル四方)の庵を作り、そこで「方丈記」を書いたとされる。長明は世俗から一歩離れた場所からこの時代の様子を克明に書いており、庶民の目線で描かれている。方丈記は世の成り行きの非情さが描かれ、今でも読み繋がれている。


平安時代の長い公家社会から武士の時代となり、鎌倉時代となると庶民の生活は激変したように思われる。武家社会による殺戮よりも、公家社会の和歌といった文学の趣向はやはり尊ばれる要素だった。しかし、承久の変による後鳥羽上皇の隠岐への配流により、公家は武家の下となった。
今でも残る冷泉家の家訓「一流の二流」は、時代の先端の取り合いよりも、定家の時代での一歩引いた処世術の考え方かもしれない。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
「西行」展図録・和歌山県立博物館
鴨長明・鈴木貞美著(ちくま文庫)
百人一首で京都を歩く・河田久章著
河南町WEBサイト

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.5/23改訂)。