第15回・安倍晴明が居た平安時代(900〜1000年頃)

平安時代の中期は今でもなじみ深い人物や寺社の創建も多く、まとめて紹介する。

安倍晴明(921〜1005)

平安時代を代表する陰陽師。出生地にはいろいろな諸説がある。星や雲の動きで予見する天文暦学を極め、6代の天皇に仕えた。花山天皇の退位を察した、式神の術比べや草の葉で蛙を殺したりと、多くの逸話がある。のちに土御門家と祖となった。
京都だけでなく、全国に伝承が残る。

晴明神社(上京区晴明町)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 


晴明神社の地は安倍晴明の館があったと言われ、一条天皇の命により創建された。

一条戻橋(上京区堀川一条通東入ル)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

安倍晴明で有名な一条戻橋。橋がかかる堀川は都を南北に貫く重要な川で、都名所図会の右側の橋は、小川に架かる主計(かずえ)橋と呼ばれた。
内裏から西へ向かう一条通のこの橋に安倍晴明の夫人が式神を怖がるため、式神を橋に封じ込めていた。式神は橋を渡る人を占う橋占をしていたという。
もともとは延喜18年(918年)に三善清行が死んで葬儀の列が戻り橋を渡る際に、熊野参拝の途中から戻ってきた息子の浄蔵が棺に取り縋り神仏に祈願したところ、清行が蘇生したということにちなむ。
渡辺綱が鬼女の腕を切り落としたや、源平盛衰記ではお産の辻占いをしたとされる。江戸時代では娘の縁談がなくならないように、または旅人に物を貸すときに橋を渡らないとされた。近年でも戦時中は兵士が戦地から戻るように願掛けするなど、逸話が多い京都で最も有名な橋となった。
昭和20〜30年代の堀川の改修工事により、小川は暗渠され橋はなくなり、戻橋も近年付け替えられたが、晴明神社には復元された橋が作られている。

晴明社(東山区松原宮川付近)

都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

江戸時代に宮川町の松原通りに面した場所に安倍晴明を祀る社があった。新しい通りを作る際に平地になったが、再建されたものの、近代には廃絶した。
現在の松原橋は豊臣秀吉の都改造の前は五条大橋だった。鴨川の中洲に安倍晴明が建立したとされる法城寺という寺があった。鴨川の氾濫を治めるよう、「水(サンズイ)が去って土(城)となる」という意味だった。
安倍晴明の死去後、この寺に葬られたといわれる。その後に廃絶したが、慶長12年に三条大橋東に心光寺として再興した。

遣迎院(東山区本町

拾遺都名所図会第2巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

遣迎院は東福寺の西側にあった寺院で、西山国師こと證空が没した寺。二つに分割され一つは御苑の東側の寺町沿いに移り、さらに移転して現在は鷹峰にある。もう一つは元の地に残った。
この地にも安倍晴明が住んでいたらしい。

安倍晴明の墓に関してはいろいろ諸説があるが、昭和47年に嵯峨嵐山に晴明神社の飛地として墓が再興されている。

元三大師良源

廬山寺(上京区寺町通り広小路上る北之辺町)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

廬山寺は、延暦寺を立て直した中興の祖といわれる慈恵大師こと元三大師良源が、船岡山の南側に開基した与願金剛院が始まり。別に出雲路に盧山寺ができ、のちに荒廃した与願金剛院と廬山寺が再興され合併、正式な名は廬山天台講寺となった。
応仁の乱での焼失、織田信長の比叡山焼き討ちによって明智光秀が攻め入ろうとするものの、正親町天皇により免れた。そして正親町天皇の勅命により寺町通りに移転した。
独特の信仰があり良源を霊験者として模した角大師と呼ばれる護符を家の内に貼ると、魔除けになるといわれている。
盧山寺の地は紫式部邸の跡とされる。 

清少納言・和泉式部

誓願寺(中京区新京極通六角下ル)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

天智天皇により奈良で創建された。鎌倉時代初期に今の上京区の元誓願寺小川通に移転、豊臣秀吉により今の場所となった。枕草子の作者清少納言や和泉式部が念仏を唱えて往生する女人往生の寺と呼ばれている。
都名所図会の誓願寺詣でお札を渡す様子が描かれている。
移転の際に秀吉の側室松の丸によって巨刹となり寺町周辺は大変賑わい、江戸時代末期には寺の門前にある迷子道しるべが作られるようになった。禁門の変により周辺は焼失し、明治になって寺町再興のため新京極通りが建設された際に境内は縮小された。

玉の輿の逸話

勧修寺(山科区勧修寺) 

拾遺都名所図会第2巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

勧修寺は尚泰3年(900年)に醍醐天皇の母藤原胤子が、弟の藤原定方にお願いして祖父の宮道弥益の邸宅跡に承俊を開基とし、のちに醍醐天皇の勅願寺となる。氷室の池は平安時代に作庭されたと言われ、睡蓮で有名である。
地名は「かんしゅうじ」だが寺名は「かしゅうじ」となる。
勧修寺に隣接する宮道神社は宮道氏ゆかりの神社で、宮道弥益の娘列子が藤原高藤に嫁ぎ、生まれたのが胤子で、そして宇多天皇の御女となって醍醐天皇を産んだことにちなみ「玉の輿」の語源となったのを伝える。

今宮神社(北区紫野今宮町)

都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

疫病退散を鎮めるため正暦5年(994年)に、一条天皇が船岡山に二基の神輿を安置し、紫野御霊会が行われたのが始まり。長保3年(1001年)に疫病が流行り新たに三柱の神を創祀、現在の地に移転する際に平安遷都以前にあった疫社を取り込み、疫社に対して新しいということで今宮神社となった。
御霊会はやすいらい(夜須礼)祭りとなり、京都三大奇祭の一つ。有名な茶屋のあぶり餅は、味噌味仕立てを田楽というが、祭礼公役の田楽と同じに名になるので、あぶり餅になったと言われる。
今宮神社では徳川家光の側室で綱吉の生母となる桂昌院は、西陣の八百屋の出身で名をお玉さんと言われていた。西陣や今宮神社の再興に尽くし、玉の輿の由来の一つとなっている。

橘行平

因幡薬師・平等寺(下京区松原車屋町通上ル因幡堂)

都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

橘行平が因幡へ赴任し、京都に戻る際に病になり伏せたところ、夢で僧が「因幡国府津の海に仏の国から来た浮き木があるので供養するように」と告げ、海に網を出して探したところ、薬師如来を発見できた。行平は草堂を建てて祀ったところ病気は治った。
その後、京都に戻るとその薬師如来が行平の自宅に現れ、感激した行平が長保5年(1003年)に自宅にお堂を作ったのが因幡堂となった。
のちに高倉天皇から平等寺の名を賜ったとされる。
平安京では東寺・西寺以外の寺は建立が認められなかったが、因幡堂は初めて建立が認められた。清涼寺(嵯峨釈迦堂)の釈迦如来と信濃善光寺の阿弥陀如来の日本三如来のうちに入る。

橘行平卿塚・等善寺(下京区五条河原町下ル平居町)

都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

橘行平開基と言われる等善寺に塚がある。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
京都市の駒札
山科の歴史と現代
今昔都名所図会(京都書院)
 国史大事典(吉川弘文館)
京都国立博物館 博物館Dictionary No.161

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.02/26改訂)。