第19回・義経と平家物語の伝説(1159〜1221年)

都落ちした平家軍は京都に戻る策略を伺っていた。そこに登場したのが稀代の軍師、源義経だった。戦いは義経の活躍により戦局は源氏有利となっていく。

牛若丸誕生井(北区紫竹牛若町)

都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

今宮神社の北東、大源庵という寺の傍に常盤御前が義経を産んだ際に使った産湯の井戸があったとされ、この地に石碑が建てられている。
常盤御前は宮中の雑仕女として都の1000人の美女から選ばれ、源義朝の愛妾となって今若、乙若、そして1159年(平治1年)に牛若が生まれた。平治の乱で義朝が討たれると3人の子供を連れて大和に逃げるが、都の母が捕まったと知ると六波羅に戻る決心をする。
他にも紫竹には常盤御前と義経誕生に関わる史跡は複数あり、地名にも残る。

常磐井(伏見区西奉行町)

拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

伏見の伏見奉行所跡に、常盤御前が都へ戻る際にここで捕縛されたという伝承が残る碑がある。常磐井は伏見の酒造メーカーの敷地にあるが、当時は東側にあったとされ、今は現存しない。
都名所図会では平治物語からの引用で、冬の時期に子供を連れて常盤御前が伏見の叔母のところに立ち寄ったが、相手にされなかったとされている。

常盤宅地(東山区の泉涌寺近く?)

拾遺都名所図会第2巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

捕縛された常盤御前は3人の子供を出家を条件に助かったが、平清盛は六波羅の近くに住まわせた。また常盤御前は清盛の子を産んだとされる逸話がある。

祇王寺(右京区嵯峨鳥居本小坂町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

平家物語に都で評判の白拍子として祇王と妹の祇女が登場する。特に祇王は平清盛に寵愛された。だが、仏御前という白拍子が現れると清盛はそっちに乗り換えてしまう。祇王は落胆し祇女と母と3人で出家して、嵯峨の往生院で庵を結ぶ。後に清盛に捨てられると感じた仏御前も出家し、4人で念仏を唱え往生したという。
往生院は荒廃したが祇園寺として残り、明治時代に廃寺となったものの、元京都府知事の北垣国道から別荘が寄付され再興した。

小督塚(右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

小督は藤原成範の娘で、高倉天皇の寵愛を受けたが清盛からの弾圧を恐れて、嵐山に隠遁したされる。
渡月橋北東にある車折神社飛地の琴引橋の欄干は、高倉天皇の名で小督を探しに嵯峨に来た源仲国が、琴の音を聞いて彼女を見つける謡曲「小督」由来のもの。渡月橋の南東側には琴きき橋の跡の碑がある。小督と高倉天皇は再会し女子をもうけたが、清盛は小督を出家させたされる。

清閑寺(清閑寺歌の中山町)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

清閑寺は小督が出家したとされる寺。高倉天皇が崩御した際に天皇の遺言で清閑寺の近くに陵が造られたとされる。小督の墓も近くにある。
それとは別に小督は出家後、嵯峨で隠遁したとされる話もある。

千鳥ヶ淵(西京区嵐山中尾下町)

千鳥ヶ淵は渡月橋の西を北に上った千光寺の前と言われる。建礼門院の雑仕をしていた横笛は芸に優れていたので、清盛の宴で芸を披露し、その場にいた重盛の家臣斎藤時頼に愛された。しかし時頼の父に反対され時頼は出家する。横笛は時頼に会いに行くが面会を拒否され、千鳥ヶ淵で入水したと言われる。
小督はそのほかにも出家した説もある。

祇王・小督・横笛といった女性悲話は平家物語や謡曲によって脚色されていると言われる。

義経堂・僧正谷(左京区鞍馬本町)

都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

義経は11歳になった時に鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗り修行を受したとされる。鞍馬寺の僧正谷には義経の修行に関わる史跡が数多くある。俗に言われる天狗というのはここでは異人と書かれている。

牛若丸の宅地(北区雲ヶ畑?)

拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

雲畑と鞍馬の間に義経の家があったようだ。義経は16歳までこの地で過ごしたとされる。

鬼一法眼塚(左京区鞍馬本町)

拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

鬼一法眼は一条堀川に住んでいたとされる伝説の陰陽師。義経は鬼一法眼の娘を誑かせて、彼の兵法書を手に入れたとされる。または義経に兵法の虎の巻を伝授したとされ、鞍馬寺には武道上達の御利益がある鬼一法眼社が祀られている。
また貴船神社の入り口にある梶取社の東側に鬼一法眼の塚があった。近代に入り大正時代に学校の関係者によって新に墓とされる塚が作られた。

弁慶屋敷(左京区鹿ケ谷)

拾遺都名所図会第3巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

鹿ヶ谷にあったとされる弁慶が住んでいた屋敷。
武蔵坊弁慶は義経の家来として有名で彼に関する史跡も数多いが、都名所図会・拾遺には真偽不明の史跡も登場する。
伝承では弁慶は比叡山の僧侶であったが評判が悪く、義経の従者になるまでの話も多数存在する。

五条天神宮(下京区天神前町)

都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

義経と弁慶と初めて出会ったとされるのが五条天神宮。また鬼一眼法と因縁の対決があったとされる。江戸時代、社の前に西洞院川が流れていて、神社の由来ではここに架かる橋で牛若丸と弁慶が初めて戦ったとされる。

十禅寺社(東山区宮川町)

都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

宮川町にあったとされる清明社の南迎に十禅師社があった。十禅師社は坂本の日吉大社にある神の分祠で、同じ社は都の他の場所に多数あった。
牛若丸と弁慶の対決は現在の松原橋である五条橋が有名だが、義経記では五条天神宮と二度目は清水寺とされる。しかし都名所図会では松原橋を渡った東側の十禅師社の森となっている。千人斬りを行っていたのは弁慶ではなく義経だとされる。
二人の対決に関しては謡曲の題目が数多くあり、祇園祭の橋弁慶山は室町時代の謡曲「橋弁慶」を題材にしている。
牛若丸と弁慶の二人の物語は様々な形で伝わっている。

蹴上(東山区)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

東山三条の蹴上の地名は、義経が金売吉の援助で奥州に行く際に、馬に乗る平氏の武士から水たまりの水をかけられたのに腹を立ち、相手を刀で切り捨てたからと言われる。それにまつわる石碑も存在する。よく言われる義経の美少年説は、ここでも描かれている。

一ノ谷の戦い

奥州平泉に向かった義経は、源氏再興の期を待った。1180年(治承4年)、異母兄の源頼朝の挙兵を知った義経は、頼朝の元に向かい対面を果たす。
一方、以仁王の令旨を受けて挙兵した源義仲は倶利伽羅峠で平氏に勝利し都に入るが、義仲を嫌った後白河法皇は頼朝に義仲の追悼を命じ、代わりに義経が討伐に動いた。1184年(元暦元年)1月、異母兄の源範頼ともに宇治橋で義仲に勝利する。
この間、都落ちしていた平家は都に戻る機会を窺っていたが、後白河法皇は義経と範頼に平家を討伐させる院宣を命じる。すぐさま討伐に動き2月に福原を攻めた一ノ谷の戦いでは、義経の崖から攻める奇襲作戦により平家側を翻弄させ勝利した。

重衡首洗池(木津川市木津宮ノ裏)

拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

平重衡は清盛の息子の一人、器量の良い武将で戦でも勝ちが多かったが、一ノ谷で捕縛された。鎌倉に連行され、一年後に奈良へと連行され、南都焼き討ちの責任者として木津川の河原で斬首された。
斬首される際に重衡がこの世の名残り柿を食べたのを見た地元の人が供養として柿の木を植えたが、実った木は実をつけなかっとされる。首洗池の近くには重衡を弔う安福寺がある。

平重衡塚(伏見区醍醐外山街道町)

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

重衡の奥方である大納言佐局が身を寄せていたのが伏見の日野。重衡が鎌倉から奈良へ連行される際に日野を通り、重衡と佐局が別れ惜しんで一夜を共にし、処刑されてから遺柄を引き取って日野に埋められたという。
重衡が頼政と以仁王を追い詰めた道で、あとで自らの塚ができるという皮肉、地元では頼政道と言われている。

壇ノ浦の決戦

一ノ谷で敗れた平家は勢力を西に移動させた。範頼軍が備前の藤戸で戦うが船を使う平家軍は讃岐の屋島に逃げてしまう。翌年の1185年(文治元年)2月、頼朝から命令を受けた義経軍が屋島で平家軍と戦い、平家軍は敗退して壇ノ浦へ敗退する。
翌3月に壇ノ浦の決戦となり、平家軍は敗北した。敗北を喫した平家軍は、8歳の安徳天皇と共に海へと入水し、平家一門は滅亡となった。

長楽寺(東山区円山町)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

長楽寺は桓武天皇の勅命により、伝教大師によって805年(延暦24年)に創建された。
入水したものの源氏に助けられた建礼門院は、この寺で出家したとされる。この寺には安徳天皇の御影がある。

左女牛井跡(下京区佐女牛井町)

拾遺都名所図会第1巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

堀川六条にあった義経の館。過去には源頼義の邸宅があったとされる。ここには左女牛井という都の井戸でも有名な井戸であったが、現代の堀川道路拡幅のため無くなり、代わりに碑が建てられた。
平家討伐で成果を挙げた義経は、後白河法皇から寵愛を受けたが頼朝から疎んじられる。義経は弁解のため鎌倉に出向くが対面を拒否され、都に戻る。そして堀川六条の屋敷で頼朝からの刺客に襲われる。義経は後白河法皇から頼朝打倒の院宣を受けたが、頼朝の怒りを知った後白河法皇は逆に義経打倒の院宣を与え、多くの武士は頼朝側についた。
義経は形成不利となって逃亡し奥州藤原氏の元に逃げるが、藤原泰衡の裏切りにあい、1189年(文治5年)に自害することとなった。魂は鞍馬寺に戻ったとされ、義経堂が作られた。

佐藤継信・忠信の塔(東山区茶屋町京都国立博物館内)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

佐藤継信・忠信は奥州藤原氏から命じられた義経に使えた兄弟の忠臣で、継信は屋島の戦いで義経を庇って戦死。忠信は奥州に逃亡した際に義経と同行するが離散してしまい、都で潜伏中に鎌倉軍と戦い戦死した。
塔の一つに永仁3年(1295年)があるが、昔からこの二人の供養塔され、江戸時代までは渋谷街道沿いにあったが崩れており、1940年(昭和15年)に塔として復元され、戦後に撤去されたが後に京都国立博物館へ移設された。元の場所に明治時代は子孫を名乗る佐藤政養が土地を買い取り、新に作られた墓が残っている。

常盤の墓・源光寺(右京区常盤馬塚町)

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

常盤御前のその後も各地に伝承があり、六地蔵巡りの寺の一つ源光寺で余生を過ごしたとされる墓がある。
常盤御前も物語で語られる面が多く、詳しい生涯はわからない。

一言寺(伏見区醍醐柏森町)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

信西の娘である阿波内侍が創建した寺院。崇徳上皇の寵愛を受けた阿波内侍は後に出家し建礼門院に仕えた。阿波内侍は大原女のモデルとされる。

寂光院(左京区大原草生町

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

出家した建礼門院は大原で平家一門と安徳天皇を弔って、この地で生涯を閉じたとされる。
1186年(文治2年)、源平合戦に深く関わった後白河法皇が建礼門に会いに行く大原御幸があった。源平合戦に深く関わった後白河法皇としては、平家唯一の生き残りとなった建礼門院が不憫で仕方なかったに違いない。
平家物語は作者不明ではあるが琵琶法師により広まった。寂光院にはその資料がある。

鎌倉幕府の成立

1185年(文治元年)に北条時政が入京し、守護・地頭の設置を勅許を求め、鎌倉幕府が成立した。
頼朝は義経討伐後の1189年(文治5年)に奥州藤原氏を滅亡させ、1190年(建久3元年)に都へ入京する。1192年(建久3年)に後白河法皇が崩御してから征夷大将軍となった。
しかし、頼朝が1199年(正治元年)に死去、息子の頼家が将軍に就くが病に倒れ、代わりに弟の実朝が就き、北条時政が執権となる。頼家は北条氏によって暗殺、実朝は頼家の遺児・公卿により鶴岡八幡宮の儀式の後に暗殺され、そして公卿も殺された。こうして正統な源氏筋は滅びた。

朝廷と幕府の戦い承久の乱

北条氏の権力が強くなっているのを恐れた朝廷側は、後鳥羽上皇が権力の奪還を狙い1221年(承久3年)に討幕の院宣を下す。
だか、頼政の嫁だった北条政子は、尼将軍と呼ばれるようになるほど幕府の実権を持ち、多くの武士に頼朝の名を挙げて朝廷軍に戦いを挑んだ。後鳥羽上皇側は思ったほどの兵を集められず、宇治橋で敗北する。後鳥羽は隠岐へ、討幕計画に加わった順徳上皇は佐渡へ流され、朝廷側は幕府に従うことになった。

こうして朝廷も含めた源平の戦いは決着をみた。源平合戦は鎌倉時代から室町時代にかけて格好の物語・謡曲の題材となり、様々な逸話が作られた。特に平家物語と義経記は軍記物として有名ではあるが、我々の知る登場人物の行動や実在するかどうかは史実とは異なると言われる。
全国に由緒があるとされる塚や伝承は、過去の人々が初めて目にした合戦が生み落としたものだろう。
そして合戦の火種は室町時代から戦国時代にかけて、群雄割拠と混乱による殺戮の時代が到来することになる。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
源平1000人(世界文化社)
平家物語作中人物辞典(東京堂出版)
京都市伏見区サイト
木津川市サイト

すらすらよめる日本の古典 原文付き 平家物語