第33回・賀茂と伊勢にいた、二人の斎王

5月15日に行われる葵祭は京都三大祭りに数えられ、京都御所を出発し下鴨神社を経由して上賀茂神社へと向かう平安時代の装束を見にまとった行列は、王朝文化を今に伝えます。その祭りに花を添える斎王代の行列は、その年に斎王代に誰が選ばれるかという話題もあり、葵祭の人気の象徴です。

斎王には古来から多くの伝承があり、賀茂の神に仕えた斎王とは別にもう一人の斎王が存在していました。

伊勢の神に仕える斎王

都名所図会と同じ江戸時代に、当時の伊勢参りの様子を書いた伊勢参宮名所図会(作者不詳・寛政9年(1797年))には、当時存在しなかった斎王に関する記述があります。しかし、葵祭の斎王代の斎王ではなく、それ以前から存在した伊勢の斎王のことでした。

伊勢神宮内宮(三重県伊勢市宇治館町

伊勢参宮名所図会5巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
伊勢参宮名所図会5巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
伊勢参宮名所図会5巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
伊勢参宮名所図会5巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
伊勢参宮名所図会5巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
伊勢参宮名所図会5巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

伊勢の斎王とはどんな人物なのか、まずは伊勢神宮の成り立ちから知る必要があります。

伊勢神宮は天皇の祖とされる天照大御神を祀る内宮と、豊受大御神を祀る外宮からなる日本の神域です。九州の日向にいた天照大御神の子孫とする天皇の祖は、神武天皇の時代に今の奈良県の橿原に遷都し、日本を建国したとされます。

三種の神器の内、天照大御神の御神体とする八咫鏡を身近に祀っていた第10代崇神天皇は、天照大御神を祀る相応しい場所を求め、諸国を周り辿り着いたのが、今の伊勢神宮の内宮です。

伊勢神宮外宮(三重県伊勢市豊川町)

伊勢参宮名所図会4巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
伊勢参宮名所図会4巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
伊勢参宮名所図会4巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

天照大御神が鎮座して500年後、丹波国から天照大御神の食事を司る豊受大御神を遷座して外宮とし、今の伊勢神宮が出来上がりました。

ですが、伊勢神宮の祭事の際に都から遠く離れた天照大御神に使える女官が必要となり、崇神天皇は娘である豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)を選び彼女を斎王としました。斎王は現在の三重県明和町にあった斎宮という施設へ向かい、伊勢神宮の祭事に仕えるためそこで生活することになります。

斎王は天皇の代替わりごとにその都度選ばれ、飛鳥時代には制度として定着していきました。

都から伊勢へ

野宮神社(右京区嵯峨野宮町)

都名所図会第4巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第4巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

野宮神社(右京区西院日照町)

都名所図会第4巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

飛鳥から奈良を経て平安時代にも、伊勢の斎王は存在しました。

斎王を選ぶ際にはまず亀の腹甲を焼いて占う卜定の占いを行い、斎王となった皇女は斎宮へ旅立つ前に神に仕える禊を行うため、世俗から切り離された生活を送ることになります。まずは御所の中で隔離されてから、翌年の秋に野宮と呼ばれる施設で一年を過ごします。この野宮の伝承のある神社は嵯峨と西院に二つあります。

斎王に選ばれた2年後、9月に伊勢神宮で行われる神嘗祭に合わせて葛野川(桂川)で禊を行った後、大極殿で儀式を行います。父である天皇から櫛を斎王の頭に挿す「別れの御髪」という儀式を行い、都から伊勢へと旅立ちます。

斎王にお供する官人らは500人ほどの参列は斎王群行と呼ばれ、それは葵祭の斎王代の列のような豪華さであったでしょう。

斎宮村(三重県多気郡明和町)

伊勢参宮名所図会3巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
伊勢参宮名所図会3巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

平安京からの斎王群行は、都から近江の勢多〜甲賀〜垂水と東海道を通って伊勢に入り、伊勢路を南下して鈴鹿〜壱志を経て明和町の斎宮へと辿り着きます。そして斎宮での斎王は年に3回の祭事に伊勢神宮へ赴き、内宮と外宮で行われる6月と12月の月次祭と9月の神嘗祭に仕えました。

朝廷と伊勢を繋ぐ斎宮は、奈良時代から平安時代にかけて規模を拡大していき、発掘調査により巨大な施設だったようです。

斎王は任命されている間は斎宮で過ごすことになり、都へ戻るのは天皇の退位よって新たに選ばれた次の斎王と変わるか、もしくは斎王自身の病や肉親の不幸でのみでした。

都へ帰る際には伊賀〜大和〜相楽と南から周り、大阪にあった難波津で禊をしてから平安京に戻りました。

賀茂祭りの斎王の誕生

上賀茂神社(北区上賀茂本山)

都名所図会第6巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

下鴨神社(左京区下鴨泉川町)

都名所図会第6巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

では葵祭に登場する斎王代の元になった斎王はいつから現れたのでしょうか。

今は葵祭と呼ばれていますが本来は賀茂祭と呼ばれ、1500年も前の540年代に災害に悩んだ欽明天皇により、賀茂皇大神を鎮めるため猪の頭を被った人が馬に乗り走らせる祭礼を行ったところ、災難は止み五穀豊穣となったことに由来します。

賀茂祭は文武2年(698年)の「続日本紀」に登場し、その頃から盛大に行われ朝廷も一目置くほどで、勅使を派遣し奉幣を行うほどでした。平安京遷都前は上賀茂神社だけで、下鴨神社は740〜750年頃にできたと言われています。

桓武天皇により都が平安京となりましたが、弘仁元(810年)年9月に嵯峨天皇と平城京へ遷都する平城上皇による策略の争い、薬子の変が起こります。嵯峨天皇はこの戦いの鎮圧のため賀茂の神に使いを出し戦勝祈願をしました。この願いが叶ったのか、嵯峨天皇が差し向けた坂上田村麻呂の活躍により、薬子の変は平城上皇側の敗退により治まりました。

嵯峨天皇は賀茂の神への見返りに、賀茂の祭事を伊勢神宮の祭事と同格の国家の重要な祭りとする中祀とし、伊勢と同じように賀茂の神に仕えさせる別の新たな斎王を選びました。

櫟谷七野神社(上京区西町入社横町)

都名所図会第6巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第6巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

嵯嵯峨天皇は娘の有智子内親王を賀茂の神に仕える斎王として、斎王は現在の櫟谷七野神社周辺に斎院を作り、斎王はそこに住むこととなりました。

そして賀茂の斎王は賀茂祭に登場するようになります。

物語や伝承に登場する斎王

二人の斎王は平安時代の文学作品にも度々登場し、その存在は広く知られていました。

平安時代の賀茂祭での賀茂の斎王は、下鴨神社・上賀茂神社へと参る朝廷からの勅使(天皇の使い)の列と一条大路で合流して、下社から上社へと参り、上社に一泊してから斎院へと帰る「祭のかへさ」という行事を行なっていました。

賀茂祭の行列の際には平安貴族達がこぞって見学し、「枕草子」には賀茂祭の行列を見学する清少納言の行動が描かれています。

また賀茂の斎王自身もは都での文化活動に貢献したようで、賀茂祭は平安時代の貴族文化の象徴として都を代表する祭りとなりました。

忘井(三重県松阪市市場庄町)

伊勢参宮名所図会3巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
伊勢参宮名所図会3巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

伊勢の斎王も「源氏物語」や「栄華物語」といった文学や歌に頻繁に登場します。

都で暮らす賀茂の斎王と違い、伊勢で暮らす斎王や彼女に仕える女官たちは、都から遠く離れた場所での長期間の滞在により寂しくなるようで、千載和歌集にある天永元年(1110年)に斎王に仕えた官女甲斐の歌に忘井で詠んだ、

別ゆく宮このかたのこひしきにいさむすひみん忘井の水

の歌には都への望郷の念が強かったようです。この忘井の伝承は松阪市市場庄町の他に松阪市嬉野にもあります。

伊勢物語69段「狩の使」

伊勢参宮名所図会3巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

業平松(三重県多気郡明和町大淀甲)

斎王が登場する物語で最も有名なのは、伊勢物語に登場する在原業平と思われる人物が、斎王との二人が再会を願う一夜の出会いが描かれている伊勢物語69段「狩の使」での話でしょう。

有名が故にそれに因んだ伝承として、明和町の大淀の浜に立っていた松を業平と斎王が分かれた場所として業平松と呼ぶようになったほどです。

二人の斎王は神に仕える神秘的な存在と共にロマンチックな存在として人々の記憶に残るようになります。

歴史から消える二人の斎王とその記憶

賀茂祭

都名所図会第6巻 安永9年・1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

斎王群行

伊勢参宮名所図会1巻 寛政9年・1797年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

伊勢と賀茂の斎王の二人は平安時代には同時に存在し、歴代天皇ごとに代替わりして継続していましたが、武士の台頭が進み天皇の地位が低下するにつれて斎王もその立場が危うくなりました。

賀茂の斎王は建暦2年(1212年)に後鳥羽上皇の皇女礼子内親王が病気により退下してから後は承久の乱もあって継続されず、およそ400年・35代で廃絶しました。伊勢の斎王も鎌倉時代には斎宮自体が荒れていき、南北朝時代の混乱により後醍醐天皇の皇女祥子内親王を最後に廃絶して、660年以上およそ60人いた斎王の歴史は無くなりました。

賀茂祭も応仁の乱後に途絶えがちとなっていましたが、江戸時代に5代将軍徳川綱吉により賀茂祭を復興し、賀茂祭の双葉葵と徳川家の三つ葉葵を兼ねて、葵祭と呼ばれるようになりました。

都名所図会には賀茂祭(葵祭)の行列が描かれていますが、江戸時代の賀茂祭では勅使の行列が主役の祭りであり、斎王は当時は制度して存在していないので、斎王に関する行列はありませんでした。

それなのに、江戸時代では斎王群行は行われていないのにもかかわらず、伊勢参宮名所図会の冒頭に斎宮群行が想像図で登場します。斎王の存在は文献などで知られていたので、伊勢神宮へ旅立つ斎王を江戸時代に流行した伊勢参りと重ねて崇められていたのでしょう。

賀茂祭は明治時代に入り再び衰退していましたが、明治天皇により明治17年に再興し、4月に行われのを現在の5月15日に行うこととしました。その後も戦争により昭和17年に中断するも、昭和28年に再興します。昭和31年には京都市在住の未婚の女性が斎王の代わりとなる斎王代が祭りの行列に加わります。また伊勢の斎王も6月上旬に開催される明和町の斎王祭りに斎王が登場します。

人々は記憶の中にいる二人の斎王の再来を願って、今でも葵祭の斎王代の行列に心奪われるのでしょう。

斎宮跡の施設

明和町にある斎宮跡では、斎宮跡歴史ロマン広場と斎宮歴史博物館で、発掘の成果や当時の再現が見ることができます。広大で優雅だった斎宮の様子を想像してみてください。

斎宮跡歴史ロマン広場
斎宮歴史博物館

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2022.09/29修正)

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
斎宮歴史博物館
明和町WEBサイト
松坂市WEBサイト
絵図に見る伊勢参り(河出書房新書)
葵祭に行くっ(京都市)
葵祭(京都市観光協会)
上賀茂のもり・やしろ・まつり(思文閣出版)