地下に眠っていた戦国時代の町、タイムスリップをした体験ができる一乗谷朝倉氏遺跡を訪ねてみよう
北陸新幹線で関東から行きやすくなった福井県。福井県の観光スポットで永平寺や恐竜博物館といった歴史を感じさせる有名な場所がありますが、他に類をみない場所として福井市から南東の山に囲まれた一乗谷朝倉氏遺跡があります。
国内の遺跡で一乗谷朝倉氏遺跡の何が凄いのか。それは戦国時代の城下町の遺構ががほぼそののまま残っていた、という事です。
一乗谷は越前を治めていた戦国大名朝倉氏の本拠として左右の山の谷間に作られた城下町で、南北に細長いことが特徴です。戦国時代当時、ここが越前国の中心地となっていました。
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栄華を極めた朝倉氏の住まいと庭園
一乗谷を治めていた朝倉氏は元は但馬国朝倉庄(現兵庫県養父市)の豪族で、越前守護の斯波氏に従って越前一乗谷に入国し、地頭として近隣を支配していました。応仁元年(1467)にはじまる応仁の乱をきっかけに斯波氏を追いやり、室町幕府から越前支配を認められ大名となりました。
朝倉館跡から山側に登ったところにある初代孝景の墓、英林塚。文明13年(1481)に孝景は死去、後は氏景・貞景・孝景・義景の4代が治め、約100年の統治で一乗谷は一万人を下らないとも言われる住民が暮らす都市となりました。
朝倉館跡は朝倉氏の栄華が感じられる巨大な宅跡で、京都の文化を取り入れ茶会を催す庭などが作られていました。朝倉氏との面会に都から貴族や僧侶が一乗谷を訪れました。
邸宅の中庭には花壇が設けられ、朝倉氏と様々な貴族達が宴を催していたことを偲ばせます。
一乗谷朝倉氏遺跡には多くの庭園跡が残されており、その内の四つの庭園が国宝にあたる特別名勝に指定されています。朝倉館跡庭園は崖から折れ曲がった水路と滝が作られ、小座敷の池庭として茶会の場となりました。
朝倉館跡の上段にある湯殿跡庭園は庭園の中でも最も古いものと考えられており、様々な石を並べた武家好みの庭園を感じさせます。
諏訪館跡庭園は義景の妻が居住したと伝わる館の庭で、他の庭よりも規模が大きいのが特徴です。中央の巨石には江戸時代に彫られた3代貞景、4代孝景の法名が残っています。なんとも気品あふれる庭でなのでしょう。
これらの庭園から離れた北側にある南陽寺跡庭園は3代貞景が娘のために再建した尼寺にあった庭で、他のより庭園より小さいものの滝と池がありました。
これら四つの庭園は跡とはいえ室町時代の庭園の様子を残す貴重な遺構であり、様々は工夫が凝らしてあります。私が見て思ったのは、12代将軍足利義晴が3年間滞在した滋賀県の朽木にある興正寺の旧秀隣寺庭園に似た印象を受けました。
室町時代は末期になると将軍家が安定しない時代となりますが、それでも武士の嗜みとして庭園が発展していった様子がわかります。
室町時代が末期となると織田信長が勢力を拡大し、戦国時代の真っ只中となります。永禄11年(1568)5月、最後の室町幕府将軍の足利義昭は、将軍になる前に一乗谷を訪れ義景と酒宴を催します。その際に庭園にあったとされる糸桜を前に、歌を交わし、
義昭「もろともに 月も忘れるな糸桜 年の緒長き 契と思はば」
義景「君が代の 時にあひあふ糸桜 いともかしこき けふのことの葉」
義昭と義景の間に協働関係を築こうとしたのかもしれませんが、その年の9月に義昭は信長側につき上洛を果たします。
朝倉館跡にある義景の墓所。元亀元年(1570)、信長が敦賀・金ヶ崎城を攻め義景との対立が始まりました。義景は延暦寺や本願寺、近江の浅井長政と連携するものの4年間もの戦いが長引き、天正元年(1573)に義景は敦賀の刀根坂の戦いで信長に大敗しました。義景は一乗谷の東にある大野に逃げるも従兄弟の景鏡の裏切りにあいその地で自刃しました。そして一乗谷は信長によって焼き払われ朝倉氏は滅亡しました。
越前は柴田勝家の領地となり、越前国の中心は北庄(福井駅周辺)に町を移されて、一乗谷の城下町跡は田畑となって土に埋もれました。
館跡の入り口にある唐門は義景の菩提寺を弔うため江戸時代に建てられた松雲院の唐門で、表には朝倉家の「三ツ盛木瓜」の紋があり、裏側には「桐紋」が彫られています。
後に松雲院は朝倉氏の菩提寺である心月寺境内へ移転しました。
江戸幕府となって近代へとが時代が移り変わり一乗谷は朝倉氏の栄華の跡として語り継がれました。
戦国時代の生活が体験できる復元町並
近代に入り一乗谷の一部が史跡・名勝に指定されましたが、昭和42年に本格的な発掘調査が行われ、中世戦国期の町がそのまま保存されている貴重さから昭和46年に国の特別史跡に格上げ指定されました。調査・保存が組織化され一乗谷は復活の道を歩む事となったのです。
平成7年に戦国時代の町並みを復元した復原町並が公開されました。遺跡の上に忠実に再現された建物や生活の様子をありのままに体験できる国内唯一の施設です。
土塀が左右に立つ道路が復元されており、まさに戦国時代にタイムスリップした感覚になります。右手が上級武家屋敷群が並んでいた区画で、左手が中級武家屋敷・町屋群になります。
この道は真っ直ぐに見えて微妙に曲がっており、立つ位置から見える先が変わります。これは敵が侵入した際に見通せなくするため、と考えられています。町にはいろいろな工夫が凝らされています。
中級武家屋敷は建物が復元されており、井戸といった生活に使われるものも忠実に再現されています。
屋敷内も生活空間が再現されており、当時の生活が窺い知れます。奥の武士達は何をしているのでしょう?
戦国時代でも遊興で将棋を指していました。一乗谷の発掘では今の将棋の駒で使われなくなった酔象と呼ばれる駒が出土しました。真後ろには動けませんが敵陣に入ると太子となって王将と同じように動けるのが特徴です。一乗谷の発掘調査で出土し、その存在が初めてわかりました。
町には物を販売する商家もありました。屋根が繋がっているように見えますが、それぞれ独立しています。
そのうちの一軒は陶器を販売しています。普通の商人のようですが背後には鎧と刀があり、いざ戦いとなったら戦場に出かけたのでしょうか。
染物屋には染料を入れた大甕のレプリカが置かれています。
染料を使って染め上がられた藍色は現代ではジャパンブルーと呼ばれる高貴な色として珍重されました。福井は今でも藍染作家が多くいる地域だそうです。
遺跡の発掘で最も考古学者を驚かせたのがトイレです。日本で初めてトイレの遺構を発見した事例となり金隠しも出土しました。和式の向きが現代と逆ですが、これは武士が用を足すときに背を向けないように、と言われています
上級武家屋敷跡は復元はされていませんが、建物の造りなどで格式の違いがわかるようになっています。
南北の端には町の防御に土塁と塀が築かれ、南側の上城戸跡は都から貴族を迎える正門でした。高さ約5m・長さ100mもあり朝倉氏の権力を見せつけたでしょう。
北側の下城戸跡には石垣が残っており、戦さへの備えはまさに万全といった印象です。
こうした遺跡の保全・復元は多岐にわたっており、朝倉館跡の前の濠は発掘調査が始まったころは道路でしたが、復元のため道路は現在は川の向こう側に移設されました。
こうした発掘調査により一乗谷朝倉遺跡は特別史跡・特別名勝に、出土品は重要文化財に指定されています。
発掘調査も全てが済んだわけではありませんので、まだまだ新しい発見があるかもしれません。
町の生活を感じる展示と朝倉氏の屋敷へ入れる福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館
遺跡をもっと詳しく知りたいなら、一乗谷朝倉氏遺跡博物館に立ち寄りましょう。2022年10月1日に開館した最新の博物館です。ちなみに愛称は「あさみゅー」といいます。
入り口のシアターでは、朝倉氏一族の一乗谷での繁栄から滅亡までをムービーで分かりやすく学べます。
一階には発掘された状態の遺構展示室があり、川からの荷物を揚げていた川湊もしくは道の遺構ではないかと考えられています。
2階の基本展示室では出土品から一乗谷の生活の様子がわかります。遺跡からの出土品のうち2,343点が重要文化財に指定されており、貴重な資料となっています。
復原町並の北側にあたる、建物を復元していない平面復原地区を復元した城下町ジオラマでは、人形をたくさん配置して生活の様子がわかるようになっています。
展示品には当時の武士達が文化人であったことを思わせる出土品も展示されています。
出土品には舶来品も含まれており、ガラスのかけらから調査によりベネチア産のゴブレットとわかり、グラスの複製品が展示されています。こうした出土品から一乗谷が当時の最先端の文化都市だったことが証明されました。
そしてこの博物館の目玉展示が朝倉館原寸再現です。発掘調査で分かった朝倉館跡の一部を内装まで最新の研究から再現しており、まるで戦国大名になったかのような世界が体験できます。
遺跡から発掘された花壇は、建物の中心に配置されており、まさに花が文化の象徴であると言わんばかりです。
会所には襖絵や掛け軸など、朝倉氏のお抱え絵師が描いた寺院の障壁画や当時の資料を参考に再現されています。五代当主朝倉義景はここで生活をしていたのです。
朝倉館跡庭園の池庭も再現されており、小座敷から庭の水を張った池を眺めることで朝倉氏の地位の高さがわかる仕組みになっています。義昭が一乗谷に来た際の休憩所として使われたと言われています。縁側に立って自身の身に迷う義昭の気持ちを考えることができるかも。
室町幕府から奉公が認められた際に使用できる毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)、白傘袋(しろかさぶくろ)。朝倉氏では4代孝景が使用を許可されました。朝倉氏の繁栄はこうして頂点に達しましたが、信長との争いが始まってしまいます。
戦わずして残った一乗谷城
朝倉館跡の背後にある山に築かれた一乗谷城を登ってみましょう。裾野から登るルートが複数ありますが、車がある場合は林道を登って頂上付近から登る三万谷ルートからだと30分ほどで一の丸に着きます。
ルート上には案内板が設置されているので、迷いづらいですが必ず分岐などは確認しておきましょう。
一の丸跡、曲輪が作られており周囲には空堀が掘られた跡があり二の丸へ行く間に堀切があるなど、山城特有の痕跡が残っています。
山城は二の丸跡、三の丸跡と続きます。実際には信長の焼き討ちの際には使用されず、その後は改変もされなかったことから、そのままの形で残っているようです。このように城下町と山城の当時の痕跡が残った状態で保存されていたという貴重さが、一乗谷朝倉氏遺跡の凄さなのです。
一乗谷朝倉氏遺跡は1日で訪れても全てを見て回れないほどの内容でした。一度来ても他の史跡を巡ってから再び訪れると資料の重要性や町の仕組みがわかるのではないでしょうか。有名なコピーの「なにもない」と思われがちな福井ですが、戦国時代に「どこにもない」ほど繁栄した町があったのです。
福井に来たならまずは一乗谷朝倉氏遺跡へ行ってみてください。
ご案内
一乗谷朝倉氏遺跡
場所 福井県福井市城戸ノ内町
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館
場所 福井県福井市安波賀中島町8-10