明智光秀が敗れた後、羽柴秀吉は織田軍勢内で地位の確保に動いた。6月に清洲において信長の後継を決める際に秀吉は信忠の息子で3歳の三法師を担いだ。これにより柴田勝家との亀裂となった。秀吉はさらに天正10年(1582年)10月に織田信長の葬儀を大徳寺で行い、総見院を菩提寺とした。 秀吉の天下取り 大雲院(東山区祇園町南側) 都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
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