第28回・都の新たな支配者、豊臣秀吉(1582〜1592年頃)

明智光秀が敗れた後、羽柴秀吉は織田軍勢内で地位の確保に動いた。6月に清洲において信長の後継を決める際に秀吉は信忠の息子で3歳の三法師を担いだ。これにより柴田勝家との亀裂となった。
秀吉はさらに天正10年(1582年)10月に織田信長の葬儀を大徳寺で行い、総見院を菩提寺とした。

秀吉の天下取り

大雲院(東山区祇園町南側)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

大雲院は正親天皇が織田信長・信忠親子をを弔う寺として創建された。寺名は信忠の戒名から付けられた。元は烏丸二条にあったが秀吉により四条寺町下がるに移転された。昭和48年(1973年)に円山公園南側に再び移転した。元の敷地は元財閥の大倉喜八郎の別荘で、昭和3年に作られた祇園閣(通称銅閣)がある。

妙喜庵(大山崎町字大山崎小字竜光)
都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

清洲会議の後に秀吉が山崎の天王山に城を作り、都攻略の拠点とした。そこで茶会を催す際に千利休を呼び寄せ作らした茶室とされるのが待庵。その後この茶室は妙喜庵に移された。国宝建築の中で最も小さいとされる。

秀吉の地位固めは信長の息子、信孝の三法師の幽閉により状況が変わり、代わりに信雄を立てることになった。織田家は勝家と信孝、秀吉と信雄に分かれた末に、天正11年(1583年)4月、ついに賤ヶ岳において秀吉と勝家と戦った。
この戦により勝家は敗れ信孝は自害し秀吉は更に天下取りに近づいた。
しかし秀吉からの扱いに反目した信雄は徳川家康につき、そして秀吉と家康が戦う事になる。秀吉は劣勢を強いられたが家康との和睦を図り、天正14年(1586年)母の大政所を家康に差し出して上洛した家康と臣従関係を作ることができた。

秀吉による京都の実効支配

聚楽第(上京区新元町)
都名所図会第1巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

天正11年(1583年)9月に京都の妙顕寺を移動させて城を造営をはじめ(現在の中京区押小路小川西入る)、同年11月に浄土真宗の本拠地だった石山本願寺の跡に大坂城を造営し、天下取りを磐石のものとしていく。京都の妙顕寺城は翌年に完成した後に秀吉は入城し、都の支配の足掛かりとした。そして秀吉は天正13年(1585年)に関白となり武家から朝廷の側から支配できる立場となった。そして翌年に新たな拠点となる城、聚楽第を造営し、秀吉は天皇から豊臣姓を賜り、太政大臣となった。

天正15年(1587年)に聚楽第は完成し、秀吉はここで政権運営を行う。都の民へのパフォーマンスとして北野大茶会を催し、次の年には後陽成天皇が聚楽第へ行幸を行なった。こうして秀吉の都の支配は磐石となった。

天正19年(1591年)に甥の秀次を関白に就任させて聚楽第を任せた。

方広寺大仏殿(東山区茶屋町)
都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第3巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

天正16年(1588年)に秀吉は奈良に匹敵する大仏を建立すること考え、東山の三十三間堂の近くに大仏殿を建立する。大仏の高さ約19メートルと現在の奈良の大仏の高さ15メートルよりも大きい。また大仏を収める巨大な大仏殿も作られ、秀吉の天下を象徴するものとなった。
7年の歳月をかけ文禄4年(1595年)に大仏を管理する寺は方広寺創建され、大仏は文禄5年(1596年)に開眼供養することになっていたが、秀吉の象徴とも言える都の大仏は数奇な運命を辿る事になる。

江戸時代には都の最も有名な観光地で、門前で売られていた大仏餅が名物だった。

西本願寺(下京区本願寺門前町)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)
都名所図会第2巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

現在の大阪城に石山本願寺を拠点とした浄土真宗の顕如は、織田信長との元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)に及ぶ長い戦い末、和議を結んでその地を明け渡し和歌山・貝塚へと移転を繰り返して秀吉により大阪の天満へと移った。
天正17年(1589年)に秀吉は京都洛中検知を開始、翌年に町割りを短冊型に変え寺社の大移動を行なった。こうした京都大改造により土地を寄進され、天正19年に現在の地に本願寺を再建することとなった。

更なる覇権を描き朝鮮出兵へ

御土居
拾遺都名所図会第1巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

天正19年に秀吉は都を土塁と堀を囲う御土居を造成する。規模は北から鷹峯〜鴨川沿い〜東寺〜紙屋川を囲む総延長22.5kmにも及ぶ壮大なもので、造成は約3ヶ月でできたとされる。

京都の洛中と洛外を分ける目安とされ、出入り口は京の七口と呼ばれるようになった。

唐橋(南区唐橋)
都名所図会第4巻 安永9年 1780年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ)

文禄元年(1592年)、秀吉は朝鮮出兵を開始する。(文禄の役)。その出発の地に羅城門の跡となっていた唐橋とし、西国街道が整備された。

旧淀城(伏見区納所北城堀)
拾遺都名所図会第5巻 天明7年・1787年(京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

正室ねねとの間に子供ができなかった秀吉は浅井長政の娘、淀君を迎え淀城を作り後に念願の息子となる秀頼を産む。

このことにより秀吉の後継者として目されていた秀次は立場を失い後に自害させられ、またその前には千利休も天正19年に自害させられた。

天下を取った秀吉は息子秀頼のため再び権力を奮い、都の南に新たなる拠点を作り出すことになった。

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.9/20)

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
大阪城天守閣
一冊でわかる戦国時代(河出書房新社)
御土居 洛中洛外のはざま(京都市考古資料館)
天下人の城(京都市文化財ブックス)
京都府中世城館跡調査

一冊でわかる戦国時代