第21回・法然と親鸞が唱える念仏信仰

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、源平合戦による政治の混乱、飢餓や大火といった庶民の生活の困窮もあり、末法思想も相まって国内は混沌していた。
宗教による救済を考え、新しい宗派が生まれ多数生まれた。
法然は浄土宗を開き「念仏を唱える」ことで誰もが救われると説いた。そして法然の弟子親鸞も専修念仏により「悪人正機説」を唱え浄土真宗となった。

法然(1133年〜1212年)

法然は長承2年(1133年)に美作国(現在の岡山県)に生まれた。9歳の時に父が夜襲を受け、死ぬ際に敵討ちをしないよう遺言された。その後に母も死に、13歳で出家して比叡山で天台宗を学ぶ。
黒谷で叡空の弟子になり法然の名を受け、修行を続け43歳の時に阿弥陀仏から「南無阿弥陀仏」と唱えればすべての人が救われる浄土宗を開いた。

黒谷金戒光明寺(左京区黒谷町)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

法然が比叡山を降りて念仏を広める場所とした庵があった。金戒光明寺は初めて庵を結んだ場所とされる。

安養寺(東山区八坂鳥居前東入円山町) 

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

法然は次に最澄が開祖したしたと言われる東山吉水に移り、念仏道場とした。法然を慕った人々が集まり念仏が広まった。浄土真宗開祖の親鸞も、ここで法然らと共に念仏修行を行った。後に安養寺として再興された。

百万遍知恩寺(左京区田中門前町)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

法然が比叡山から降りた際に相国寺の北側の場所に住んで専修念仏を説いたとされる。そこは功徳院と呼ばれ「賀茂の河原」や「今出川釈迦堂」とも言われた。明治時代まであった下鴨神社の神宮寺に通っていたとされる。法然の死後、弟子の源智が師の恩を知るとして知恩寺とした。
元弘元年(1331年)に善阿が疫病退散を封じる百万遍念仏を行い、疫病が治った事により後醍醐天皇から百万遍を賜った。
寺は相国寺建立に伴い移転する事になったが、その後も移転を繰り返し、寛文2年(1662年)に現在地で再興された。

安楽寺・法然院(左京区鹿ケ谷)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

法然らの専修念仏は多くの民衆の心を捉えた。しかしながら大きくなる教団に対し他の宗派から反発もあった。
建永元年(1206年)に後鳥羽上皇が熊野詣でででいる間に、法然の弟子である住蓮と安楽の菴に、出家したいと申し出た上皇の女官である松虫と鈴虫が訪ねきて二人を出家させた。
承元元年(1207年)、それを知った上皇は激怒して住蓮と安楽は死罪とし、念仏を禁止して法然を四国へと流罪とした。法然の弟子だった親鸞も流罪とされ越後へと流された。この承元の法難によって師弟は別れる事となった。
長楽寺は住蓮と安楽、松虫と鈴虫を弔い、寺の北にある法然院は後の延宝8年(1660年)知恩院の萬無和尚によって所縁の草庵として再興された。

知恩院(東山区林下町)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

流罪から5年後の建暦2年(1212年)に都に戻った法然は、東山大谷に勢至堂を作りそこに住んだ。そして翌年に80歳で入寂した。
ここに墳墓を作ったものの奈良や比叡山の僧兵に荒らされるため、光明寺のある西山粟生野に遺骸はうつされた。
墳墓は荒れ果てたが、文暦元年(1234年)に弟子の源智が再興させて大谷寺とし、正親町天皇により知恩院となった。

光明寺(長岡京市粟生西条ノ内)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

西山粟生野は法然が23歳の時に比叡山から奈良へ向かう時に宿を借りた際に、住人から悟りを開いたらまた来て教えを説いてほしいと頼まれ、43歳で比叡山から降りた時に初めて念仏説法をしたとされる。
法然の死後15年後に遺骸は他の宗派からの迫害を避けまず嵯峨へ、それから太秦へと移された。夜に棺から光が放たれ、それが西山粟生野を照らしたので遺骸をこの地にあった寺の裏山に御廟堂を建てたとされる。

親鸞(1173年〜1263年)

法界寺/日野薬師(伏見区日野西大道町)

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

親鸞は承安3年(1173年)に今の伏見区日野の法界寺で産まれた。幼くして両親を亡くしたとされる。

植髪堂/青蓮院門跡(東山区粟田口三条坊町)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

親鸞は9歳で青蓮院で得度をし出家する。青蓮院門跡の境内には親鸞の髪の毛を祀る植髪堂がある。
親鸞は比叡山で修行するも自分の欲から逃れられず、29歳で比叡山を降りる。

頂法寺(中京区堂之前町)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

六角堂で親しまれる頂法寺は聖徳太子が創建とされる。本堂前にあるへそ石は都の中心とされる。
親鸞はここで百日参籠し、救世観音の夢告で「女を欲したければ、私が女になろう」というお告げから、吉水にいた法然の元を訪ね弟子となった。

西岸寺(伏見区深草直違橋)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

親鸞は法然から「妻を持っても念仏を通せ」と言われた。
法然の元に九条兼実の娘、玉日姫を弟子の内から嫁にしてほしいと頼まれ、親鸞が選ばれた。法然は玉日姫を見て「良き坊守」と伝えた。

岡崎別院(左京区岡崎東天王町)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

親鸞は岡崎に庵を作り、そこから吉水に通い法然の元で修行を続けた。しかし後鳥羽上皇の怒りによる流罪は親鸞にも及び越後に行くこととなった。
岡崎別院にはその時の姿をみた姿見の井戸がある。親鸞と別離された玉日姫は西岸寺となる小坊で生涯を閉じたとされる。

数人の弟子と共に越後に来た親鸞は、この地で恵信尼を娶り子供をもうけ布教活動をした。流罪の罪を解かれてから関東へ赴き布教に励んだ。

善法坊跡(中京区柳馬場通御池上る)

拾遺都名所図会第1巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

62歳になった親鸞は末娘の覚信尼と京都へ戻った。そして善法坊にて弘長2年(1263年)、90歳で亡くなったされる。
善法坊は元々御池通柳馬場通上るにあったが、のちに荒廃してしまい法泉寺として再興されたが、近代に入り御池小学校拡幅のために移転をして、下鴨本通り沿いにある。
善方院跡は東本願寺が定めた場所で、西本願寺は角坊として右京区山ノ内御堂殿町に定めた。

崇泰院(東山区林下町)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

親鸞の遺体は鳥辺野で荼毘に伏され、覚信尼ら信徒によって今の知恩院の北の大谷に六角堂の「大谷廟堂」が建てられた。これが後に本願寺となる。
崇泰院は本願寺がこの地を離れ、後に知恩院の境内の中に親鸞の廟堂として再興された。

法然と親鸞は大谷という地で念仏修行を行い、法難によって再会は叶わなかったが、死後は知恩院と本願寺という形で隣り会う事となった。
しかし、二人が修行した比叡山の僧兵により寺は攻撃を受け、後に本願寺派が二つに分かれる要因になった。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
親鸞めぐり旅(講談社)
日本の名僧(扶桑社)
親鸞聖人を訪ねて(WEBサイト)

講談社学術文庫 法然と親鸞の信仰 (新版)