第17回・院政の始まりと源氏と平氏の争い(1086年〜) 

平安時代末期から天皇が住む内裏は度々焼け、天皇が代わりに貴族の家に住むことを里内裏とよんだ。しかし、内裏が再建してもそのまま天皇は貴族の家に住む事が多く、内裏の機能は低下し始めた。これに伴って天皇の地位は大きく変わってく。
後三条天皇は藤原氏と外戚を持たない天皇で、独自の政策を執るようになった。次の白河天皇がさらに推し進めて応徳3年(1086年)に創始したのが、天皇を退位して上皇となって天皇の家長として支配し、太政官を無視することで政治の実権を行う院政の制度を確立した。こうして天皇家による政権運営を確固とするものにした。白河上皇による院政は堀川・鳥羽・崇徳天皇と40年も続いた。
これと並行して武家の平家が台頭し、源氏の勢力と天皇・上皇の権力争いが絡み合い、都は不安定な情勢になる。

院政の拠点

法勝寺跡(左京区岡崎)

拾遺都名所図会第3巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

法勝寺は白河天皇が藤原氏から献上された岡崎の白河院を、承暦元年(1077年)に寺として造営したもの。八角九重塔は八角形の形をした高さ80メートル以上の壮観な塔であったらしい。
法勝寺周辺にはのちの天皇たちが尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺を造営し、総じて六勝寺と呼ばれるようになった。
これらの寺院は火事などの焼失して再建を繰り返したが、応仁・文明の乱で廃絶した。
また西側に白河天皇が御院所とした白河殿があった。

鳥羽離宮跡(伏見区中島御所ノ内町)

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

応徳3年(1086年)、白河天皇は堀川天皇に譲位して上皇となり、鳥羽離宮を造営し翌年に遷御となった。
その規模は「都遷(うつり)が如し」と言われるほど広大で美しい国内最大の離宮だった。白河院政が43年・鳥羽院政27年間が鳥羽離宮が最も栄えた時期で、その間は寺院の造営による拡大を繰り返した。
上皇が住む御所には南殿・北殿・泉殿・東殿・田中殿が、寺院も証金剛院・勝光明院・安楽寿院・金剛心院・成菩提院などが作られた。これらの寺は広大な池に配され、勝光明院は平等院を模した阿弥陀堂を擁した。
当時の贅と技術を結集して作られた鳥羽離宮は、貴族たちが船遊びに興じる極楽浄土として栄えた。
しかし保元元年(1156年)に鳥羽法皇崩御の後、崇徳上皇と後白河天皇との皇位継承の争いである保元の乱以降は衰退し、室町時代中期まで使用されたようだが、今では安楽寿院・秋の山・白河天皇陵・近衛天皇陵・鳥羽天皇陵を残すのみとなった。

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

秋の山は鳥羽離宮当時の名残り残す庭園に作られた人工の山。鳥羽の地は平安京の朱雀大路の南端で、南西に行く街道の久我畷や津(港)があった。小枝橋は鳥羽伏見の戦い勃発の場所である。

安楽寿院(伏見区竹田中内畑町)

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第5巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

安楽寿院は鳥羽離宮の東端に当たる場所で、鳥羽上皇により造営された。当時の敷地は今よりも大きく、大きな池があるほどだった。
安楽寿院に隣接する近衛天皇陵は、天皇陵では珍しい多宝塔は慶長年間に再建された。

城南宮(伏見区中島鳥羽離宮町)

拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

城南宮は平安京遷都の際に王城の南を守護することを願って創建された。城南神と呼ばれ、のちに鳥羽離宮が造営され、その中心として祭礼も盛大に行われた。鳥羽離宮に作られた寺院をそうして城南寺とも呼ばれた。
鳥羽の地は白河上皇による院政の象徴であり、承久3年(1221年)鎌倉幕府に戦いを挑んだ後鳥羽上皇による承久の乱の敗北。南北朝時代の発端となった後醍醐天皇が、隠岐に配流する前に天皇が入る鳥羽殿に入ることを憚られるので桟敷殿に入った事。慶長4年・明治元年(1868年)の薩摩軍と旧幕府軍の鳥羽伏見の戦いと、天皇の権力闘争に因縁がある場所となった。

平氏一族の主、平清盛の登場

六波羅(東山区門脇町)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

現代の東山区にある六波羅蜜寺周辺は平氏の中で平清盛を中心とする平家一門が住む広大な居住地があった。清盛はこの地を足場とし、藤原氏に変わり政治に深く介入する事になる。

若一神社(下京区七条御所ノ内本町)

都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

六波羅とは別に平清盛の別荘地が、若一神社の始まりといわれる。清盛が仁安元年(1166年)に熊野詣でに出た際、お告げで邸宅の土中に埋まった若一王子の御神体を祀ったところ、翌年に太政大臣へ出世したことから出世の神様となった。

武士の名門、源氏の一族

六孫王神社(南区壬生通八条角)

都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

清和天皇の六男の子供にあたる経基は六の字を当てて六孫王と呼ばれた。源氏の姓を賜り後の源頼朝へ繋がる家系と基となった。
大通寺・遍照心院は経基を弔う寺として建立された。
寺は足利氏や織田信長・豊臣秀吉・徳川家からの援助により広大な敷地を有し、元禄年間に六孫王神社が建立された。明治時代の廃仏毀釈と鉄道建設により、大通寺が南区西九条比永城町へ移転することとなった。

平野神社(北区平野宮本町)

都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

平野神社は平城京の宮中に祀られていた社で、桓武天皇による平安京遷都の際に御遷座された。
奈良時代末期から皇族の臣籍降下により平氏・源氏といった天皇外戚の氏神として尊崇された。

平氏は桓武天皇の系譜を祖とし、「平」は平安京から取られたという。源氏も清和天皇の系譜とする六孫王と嵯峨天皇を系譜とする源融といった、皇族の系譜から外れた性がつく人を言う。源氏と平氏は天皇になれなかった外戚筋が武家となった。
平安時代末期は平氏・源氏と上皇や天皇による権力闘争が発端であり、武家社会による統治の始まりであった。
鳥羽離宮は平安時代の天皇や貴族社会の優雅さを残した、最後の輝きだった。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
鳥羽離宮を歩く(京都三星出版)
源平1000人(世界文化社)

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.02/26改訂)。