第13回・六歌仙が歌う都の風景(905年)

平安時代は和歌といった文学が生まれ、心にある「心情」をどう言葉にするかで発展した。政治でもこの分野に重きを置かれ、貴族や時の人たちの当時の様子を伺い知ることができる。 

和歌を選定する

和歌所(平安宮内)

拾遺都名所図会第1巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

平安京の平安宮内裏に和歌所という、天皇の皇后や側室といった女官が集まり和歌の撰定が行われた。

紀貫之の家(左京区八瀬?)

拾遺都名所図会第3巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

延喜5(905)年に醍醐天皇から紀貫之に和歌の撰定が勅命され、最初の勅撰和歌集「古今和歌集」が作られた。この時に選ばれた6人の歌人、小野小町・大友黒主・僧正遍昭・在原業平・喜撰法師が後に六歌仙と言われるようになり、江戸時代でも六歌仙の人気は高く、都名所図会にもゆかりの史跡が紹介されている。
歌は百人一首から紹介する。ただし、大友黒主は近江の出身で、都名所図会には纏わる史跡はないようだ。また百人一首では歌は選ばれていない。

小野小町

花のいろは うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

小町草子洗水碑(上京区一条通堀川東入北側)

都名所図会第1巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

小野小町は六歌仙唯一の女性の読み手で、絶世の美女と呼ばれる。小町は小野篁の子孫と呼ばれ、神泉苑で雨乞いの歌を詠んだ、巫女としての能力もあったらしい。

小町に関しては逸話も多く、小町草子洗水碑は宮中歌合で六歌仙の一人である大友黒主から万葉集からの盗作と言われ、証拠に書かれた草子を出されたが、疑問に思った小町が水で洗ったところ、書き加えられた文字が流れ疑いが晴れたという。

小町化粧水(下京区西洞院通四条東南角)

都名所図会第2巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

四条西洞院にあったとされる小町の別荘。

随心院(山科区小野)

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第2巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

小野小町の邸宅があったとされるのが随心院。寛仁2年(1018年)に仁海が開創し曼荼羅寺と呼ばれ、のちに随心院となった。応仁の乱で燃えたが江戸時代に徳川家の寄進で復興した。
小町化粧井戸や恋文の塚があるが邸宅跡だという確証はない。

欣浄寺(伏見区深草)

都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

小野小町の最も有名な逸話が百夜(ももや)通い。深草に住む深草少将が小町に付き合ってくれと頼んだところ、小町が百日通ったら望みを叶えるといわれ少将が毎晩通い、百日目の雪の日に小町の邸宅の前で倒れて死んだという。

補陀洛寺(左京区静市市原)

都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第6巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

小町寺とも呼ばれ、小野小町の晩年の姿の小野小町老衰像が祀られ、小町と深草少将とされる墓がある。

小町塚(井手町井手東垣内)

小町の墓は全国にもあり、京都府内の井手町にも69歳で亡くなったとされる小町塚がある。井堤寺(井手寺)跡は橘諸兄が建立したとされる寺。

小町寺・苦集滅道 (東山区渋谷街道)

小町に関わる小町寺は、東山と山科とを結ぶ渋谷街道沿いにあったと伝えらる。渋谷街道は苦集滅道と読んだらしい。

僧正遍昭

天つ風 雲のかよ路ふきとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ

元慶寺(山科区北花山)

都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第3巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

僧正遍昭は仁明天皇の厚遇を受けてたが崩御した際に出家した。

元慶寺は僧正遍昭が陽成天皇の誕生を祈願して創立した。西国三十三ヶ所霊場の番外札所。僧正遍昭の墓が近くにあるが、明治以降に作られたようだ。
当時、元慶寺の近くにも小町寺と呼ばれる寺があった。

在原業平

千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは

在原業平の家(中京区間之町通御池下る東側)

拾遺都名所図会第1巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

在原業平は父に平城天皇の皇子・阿保親王、母に桓武天皇の皇女・伊登内親王で2歳の時に臣籍を降りて在原を名乗った。
伊勢物語のモデルとされ、当代きっての色男として名を馳せた。

三条坊門高倉にあったとされる。

業平谷(山科区)

拾遺都名所図会第2巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

今昔物語に出てくる説話で、この世の女性を全て我が物にしたい在原業平が、素晴らしい美女に求愛したが、女の両親から他に嫁に出すと断れた。業平が女を捕らえて山科の荒れた山荘に匿ったところ、夜に雷鳴が鳴り太刀を構えて女を守ったが、朝になって振り返ると女が首だけになり、恐ろしくなって業平が逃げたという。雷鳴は鬼とされ、むやみに知らない場所には立ち入ってはいけないという戒めとされる。

十輪寺(西京区大原野)

都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第4巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

十輪寺は嘉祥3年(850年)に文徳天皇の世継ぎ生誕を願って創建、後の清和天皇が生まれた。業平が晩年隠棲した地で、難波から海水を運んで塩焼きの風流を楽しんだとされ、小塩山の由来となった。今はなりひら寺と呼ばれる。応仁の乱で燃えたが、江戸時代に藤原北家によって再興された。

在原業平趾(西京区大原野)

拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
拾遺都名所図会第4巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

在原業平の父母と業平を弔う、とされる三つの五輪塔。立っている場所は業平の母、伊登内親王が隠棲した地と言われる。
都名所図会では、旅人が大原野の上羽の里で、地元の人に塚の場所を尋ねている挿絵がある。竹やぶの中に小さく描かれている。
今でも西方寺の裏の竹藪の中にある。

業平朝臣廟(左京区吉田神楽岡町)

拾遺都名所図会第3巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

業平を弔う塚は十輪寺内にあるが、吉田山には廟が作られたとされる。吉田山山頂の竹中稲荷社にあるとされるが、今ではそれらしい石碑はなく、説明する札しかない。

喜撰法師

わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり

喜撰山(宇治市池尾)

拾遺都名所図会第5巻 天明7年 ・1787年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 
都名所図会第5巻 安永9年 ・1780年 (京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ) 

喜撰法師は伝説の歌人とされているが経歴は謎とされ、歌は一首しか残っておらず、古今集序文では「ことばかすかにして、はじめをはりたしかならず、いはば秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし」と評された。

喜撰法師が宇治山に住んだことにちなんで名付けられたのが喜撰山。
歌では周囲の人は宇治山に住んでいることに、世間からは憂いていると思われているが、しっかりと生活していると歌った。
現在の喜撰山にはダム湖ができ、囲まれた山が水面が映る。しかも発電の際に水位が下がるという、さらに浮世離れをした風景となっている。

参考文献 
京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ
京都・観光文化検定試験公式ガイドブック(淡交社)
フィールド・ミューアジム京都
京都観光ナビ
各寺社の公式サイト・参拝のしおり・由緒書き
百人一首で京都を歩く
大原野を歩く(向日市文化資料館)

※各説明文に関しては史料などを参考に、独自に考察しています(2021.02/26改訂)。